都万神社

西都市に行った折、たまたま大きな神社があったので寄ってみた。都万(つま)神社である。広い境内のあちこちにクスの巨木があるが、どれも内部がウロになって枯死寸前、あるいは倒壊遠からず。残念であるが木にも寿命はある。




拝殿に行ってみるとなんだか違和感がある。参詣客が妙に多いのである、観光地でもなく正月でもないのに。それも若い女性ばかり。はじめは台湾か中国からの団体観光団かとも思ったが日本語を話しているので違うようである。

絵馬を見て謎が解けた。絵馬はハート型の良縁を願う物が多い。そう、都万神社は妻神社ともいい、最近は縁結びの神として流行っているようだ。絵馬を奉納したした人も全国に渡っている。絵馬での願いは切実な結婚への願いが感じられて切ない。


ここでは境内のお稲荷さんにキツネがいた。これはさすがに狛犬とは言うまい。

福瀬神社の狛犬とハナガガシ

福瀬神社は現在の日向市、合併前でいえば東郷町福瀬にある。
地元教育委員会の掲示によれば、ここのハナガガシの木は樹齢300年・根回り9m・樹高40mの日本一、いや世界一の巨木だという。森の中なのでその全貌を写真に撮るのは困難だ。

最近、大枝が近隣の民家に差し掛かり危険だ、というのでこの木は大幅に剪定されたという。だからこの写真(6年前)の姿はもう見れない。
その詳しい経緯はココを見て欲しい。巨樹を守るのも大変だ。「安全」の錦の御旗の前では巨樹の立場は弱い。いくら金を積んでも買えない巨樹こそ最も価値ある歴史遺産だと思うんだが。



下:福瀬神社、拝殿。どこもピンクで塗られている。


下:この神社の狛犬も行縢神社ほどの不気味さはないものの、容貌魁偉でなかなか魅力的。ほとんど人面。
大正6年の年銘があるから100年も経っていない。
全国的な狛犬デザインのスタンダードがなかった頃にはさまざまな狛犬があったにちがいない。




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聖夜の仁王

Merry Christmas!



行縢神社の狛犬

神社の拝殿はどこもここも似たり寄ったりで、特に新しく立て替えられたものは面白くない。狛犬も時代の新しいものは個性が感じられず、全国一律似たようなデザインで面白みがないので注視することもない。
しかし時代を少しさかのぼると個性的なものが多い。そんなに昔でなくても昭和初期、大正、明治くらいだと各地の石工の個性を感じさせる狛犬がある。全国的な情報網が発達してなかった頃は、遠隔地のデザインを模倣することが少なかったのだろう。
私の近所では行縢神社のものがきわめて個性的。


かなり不気味である。獅子というよりサルかヒヒみたいだ。
子供が一人でこの神社に来たらとても怖がるだろう。この神社自体が人里はなれた深い森の中にある。

左右でデザインもプロポーションもかなり異なる。
破損しているのが惜しい。

明治33年という年銘がある。萬作という石工の名もある。



ところがこの素晴らしい狛犬の横に真新らしい平凡な狛犬が並んでいて、この狛犬を押しのけているのである。どういう目立ちたがりが奉納したんだ?


下:行縢神社参道は深い原生林の森の中にあるが、神社周辺には杉の古木が多い。行縢の滝はここから遠くない。



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玄関先の阿吽たち-2

沖縄のシーサーはシシのなまりらしい。つまり獅子である。狛犬も元来は獅子なのだがライオンになじみのない日本ではいつしかイヌと呼ばれるようになっただけで本当は犬ではない。道理で全然犬らしくはないわけだ。
最近では近所の玄関先でもシーサーを見かけるようになった。



下:狛犬とは姿勢が違うようだ。いまにも飛び掛りそうだからこれはシーサーだろう、と分類してみた。


とはいえ、こいつはお座りしているが顔つきがシーサー風である。それに赤い焼き物だからシーサーだろう。


玄関先の阿吽たち-1

近所の住宅地を歩いていると玄関に狛犬を置いている家が結構ある。最近の流行なのか。沖縄では狛犬(シーサー)は個人宅にある訳だから不思議はない。ただし狛犬と言っても陶器の置物なのだが。これを見ると心なごむ。








下:信楽のタヌキと並んで。玄関先の常連の揃い踏み。

竹田近辺の野仏

車で国道を通過するだけなのでそうそう野仏を見かけるわけはない。じっくり野仏を探すなら国道をはずれなければならないのだが、それはまた次の機会にゆずろう。

下:三重町で。嘉永7年(1854年)と年銘がある。
ここの地蔵の前掛けは赤でなく灰色の水玉。おしゃれである。



下:緒方町の馬求宮の田植地蔵。残念ながら顔を破損。
田植えが日暮れまでに済まず困っているところをどこからともなく現れた童子が手伝ってくれて助かった。帰ってみたらなじみの地蔵が泥まみれになっていた、というような田植え地蔵伝承はあちこちにあるから日本昔話にもなっている。





同じ所にどういう訳か恵比寿様。こんな山の中でよく鯛が釣れましたね。


竹田市郊外で。「延命地蔵尊」とある。どうやら首を失ったので新しく付け替えたようだ。そんなんで本当に延命のご利益があるのか若干不安は残る。



北滝ロマン道路

旧久住町(竹田市に併合)を通過する国道442号は滝廉太郎の竹田、北原白秋の柳川の隣の大川市を経由することから久住山麓近辺を「北滝ロマン道路」と呼ぶらしい。建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選に入っている。

まぁ、久住山麓は風光明媚なのでいいとしても、それ以外の区間はフツーの国道である。しかも柳川市は通っていないんだし、竹田、柳川いずれの市街地からもはるか離れているんだから「北滝ロマン道路」は牽強付会の感が強い。



日本の道路景観といえば市街地以外では山か耕作地ばかり。平地でないところはほとんど樹林なので見晴らしがきかないものだが、久住から阿蘇にかけては野焼きで草地を維持しているので見晴らしが良い。ここ久住花園近辺でも牧場が多く樹林がないので遠方まで見晴らせる。遠く阿蘇や大分宮崎県境の祖母・傾の山々まで見える。


この道路は松並木で名高い。いまや松並木は珍しい。マツクイムシにやられ壊滅状態だからここの松は貴重だ。ここでも防除がなされているのが個々の松に付けられているタグでわかる。この松は江戸時代に細川藩が植えたものだというから歴史が古い。
車で走ると松並木区間は5~6分くらいしか続かないのがちょっとさみしいが。やはり杉より松のほうがはるかに趣きがある。松林が途絶え杉林があらわれるとがっかりする。




竹田 おたまや公園と周辺

竹田の稲葉川沿いに岡藩藩主中川家の墓所、おたまや公園がある。元来は中川家の菩提寺の碧雲寺の境内だったものを公園化したもの。墓が公園になっているというのも奇妙である。実際に行ってみると墓石がたくさん並んでいる。ブランコなどの遊具は全然ない。日曜日というのに駐車場はカラッポで公園内にもだれもいなかった。

上:園内や背後の山の紅葉はすっかり散ってしまっている。11月は紅葉見物で多少は賑わったかもしれない。

下:石橋で池を渡ってあの白塀の内側に入ると歴代藩主の墓が並んでいる。



園内の山の崖に線刻仏画があってここの名所らしいが、目を凝らさないと何が描いてあるのかわからないほどのもので正直言ってあまり有り難味がないので写真も載せない。



上下:おたまや公園の隣が中川家の菩提寺の碧雲寺。大きな本堂をかまえる立派な寺である。


下:碧雲寺のそばの山の中腹に英雄寺がある。この寺は中川氏によって建立されていて、その歴史的由来は写真の説明版を見て欲しい。写真で石段の上にチラッと見える山門は鐘楼を兼ねている。その説明も説明版にある。(クリックで拡大)



この寺は牡丹でも有名らしい。文禄の役、朝鮮出兵にまで遡るその故事と碧雲寺の由来はなかなか面白い。ぜひコチラで見て欲しい。


下:最近芸能界にも城マニアが多い。




城原八幡社近辺

城原神社自体が景行天皇の九州征伐に由来し景行天皇を祭神とするくらいだから、大変古い歴史を持つ。神話が事実ならなんと約2000年前。弥生時代である。まぁ、そこまではないが神社の周囲には昔なつかしいような景観が残っている。

下:まだ営業しているのかなぁ。

下:この理容室は赤青のねじりんぼうが回っていたから営業中。


下:神社そばの景行天皇行宮蹟の鳥居が立つ丘の上から見た風景。
すぐ下には造り酒屋のレンガ煙突。さだまさしの「案山子」の歌詞みたいだが。右手の森が城原神社。



下:この酒造場はもう営業していない。神社のまん前にあるその本宅も空家となり朽ちつつある。立派な屋敷と酒造蔵だけにもったいない。なんとか保存できないものか。



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城原八幡社


上:国道442号線竹田市城原の旧道を通ると大変立派な神社があった。城原(きばる)八幡社である。神社の前の旧街道沿いにはうっそうたる杉の巨木がならび、入り口には立派な門がある。

上:境内には朱塗りの豪壮な社殿と神楽殿。
この日は氏子の皆さんが正月を迎える準備をしていた。
あのイチョウの大木もすごい。


あの門のなかにはこのような二人の神様が。いわゆる随神(ずいしん)である。クリックで拡大してみるとその名前が確認できるがパソコンではその字は出そうにない。ネット上で検索すると古事記に現れる天岩戸神話の登場人物たちだ。(櫛磐間門命-くしいわまどのみこと・豊磐間門命-とよいわまどのみこと)である。つまりこの二人は門衛なのである。弓を持っている。装束は古代神話というより平安貴族風である。ウィキペディアによれば、元来は随神は随身(ずいじん、ずいしん)に由来する。平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである。道理で平安風の衣装のわけだ。

下:あの門の前にある狛犬は普通の狛犬だったが、境内のすみにいかにも古そうな面白い狛犬が。下のアップした写真を見てください。思わず笑えます。好きだなぁ。なんでこんな傑作を正面入り口に置いとかないんだぁ? こんなのがあちこちの神社にもあるとお参りもずっと楽しくなりそうだ。神社もワンダーランドになる。この笑う狛犬に出会えただけでここまで来た甲斐があった。


高流寺の仁王

ネットで調べると竹田市内には他に高流寺にも仁王があるというので寄ってみた。
岡藩藩主、中川家の墓所であるおたまや公園の周囲に3つの寺が集まっている。背後の台地の上に竹田市役所がある。竹田市役所はお城の形で有名なのでちょっと寄って見てみた。とにかく竹田市街地の公共施設は擬似城郭建築ばかりである。やるなら徹底的に時代もつけて欲しいところ。

下:みたまや公園のある稲葉川沿いの道はずっとこんな塀。この塀のせいで川は全く見えない。ここまでやると粋ではなく無粋。

下:これが高流寺の石段と山門。山門の手前に仁王。

下:仁王。冬の早い夕日で吽形は逆光になる。
おとなしい普通の仁王である。

寺の境内は庭園もなく狭い広場では子供たちが遊びまわり、住人の生活感のある寺である。本堂の屋根の古び方が歴史ある古い寺であることを物語る。

下:鐘楼の屋根に珍しい「くるす紋」を見つけた。これは岡藩藩主の中川家の家紋。中川氏は戦国期にはキリシタン大名だったのだろう。中川家の菩提寺はここではなく、隣の碧雲寺であるから、どんな関係なんだろうか。

猪鹿狼寺の仁王

 ネットで紅葉の名所を探していたら大分県の久住の猪鹿狼寺という寺が目に留まった。イカロジと思っていたらイカラジと読むそうだ。すごい名前の寺だ。動物園か花札を連想する。その名の由来はリンク先を読んでいただきたい。古い歴史のある寺である。
 写真を見ると紅葉が見事でそのロマンティックな名前とあいまってよほど素敵な寺にちがいない、と思えた。おまけにここには仁王もある。紅葉にはすでに遅すぎたが出かけてみた。家から約2時間。100kmちょっとである。


 この寺は竹田市久住町、旧小国街道、国道442号線を少し入った旧道沿いにある。
 広くきれいな境内をイメージしていたんだが、Y字路のくぼみに位置するとても狭い寺だった。大分県の寺は巨大な屋根の本堂を持つ立派な寺が多いものだが、ここは本堂だか住居だが区別のつかない普通の小さな建物、それも新しい。
 ウムム、これでは独立した観光地としては集客力はなさそうだ。しかし、立派な仁王、そのそばに立つイチョウとカヤの巨木といい狭いながらも味わいのある寺であった。

上:いい面構えの大変立派な仁王である。
下:吽形の背後の巨木はカヤと思うんだが。もしそうなら碁盤材として大変な価値がある。どうか伐られずにいますように。境内は奥行きはあるように見えるが左右の幅は両側を道路に挟まれてかなり狭い。

めったに訪れる人もいないのか、寺の住職と思しき老人が顔を出し、書類をくれるとおっしゃるが、もしかすると巡礼の人間と勘違いされているのではないかと恐れ入って辞退した。

下:グーグルの衛星写真ではまだ国道442号が新道に移行していない。実際は猪鹿狼寺の前の道はすでに旧道となり交通はきわめて少ないのでとても静かだ。正面には建宮神社の森。かつて神仏習合の時代はこの寺と神社は一体のものだったようだ。明治の神仏分離令で猪鹿狼寺は一時廃寺となったこともある。

より大きな地図で 猪鹿狼寺 を表示

地蔵の里-宇納間5 備長炭

北郷村のあちこちでケムリがもうもうと上がっている所を見た。炭焼釜である。


下は別の所。最近の炭焼きは大規模である

いくつもの釜が並んでいる。

原料となるカシの木。

かつてプロパンの普及以前、昭和30年代中ごろまでは木炭は家庭の燃料の主役だった。宮崎県でも木炭は山間地の主要産業だったがエネルギー革命であっというまに息絶えた。それが最近は調理用の高級木炭で復活してきた。ここ宇納間でも今や主要産業となってきており「宇納間備長炭」のブランドでネットでも買うことができる。結構高い!

かつて木炭産業の衰退で山の雑木林は用無しとなり杉の造林地となりあたり一面杉の純林ばかりとなった。杉はすっかり伐採期を迎えたが価格低迷で行き場を失っている。
木炭の復活であの憎たらしい杉林がまた広葉樹林となればこのあたりの景観もまた心安らぐものになるかもしれない。
下:カシなどの照葉樹林が木炭の原料。大木ではダメ。門川町



地蔵の里--宇納間4 野仏さまざま

北郷村に長谷野という地区がある。ここの路傍で見たのがこれ
字は大日如来と読める。下に牛と馬。大日如来は農耕・運輸に関係するので、牛馬ということか。

下:同じく北郷村入下神社で見かけたのがこれ。
私の乏しい知識では何なのやらわからない。牛(おそらく)に乗った人物、おそらく女なのか。どんな仏か神か?


下:これも入下神社の庚申塔。いくつもあるのであちこちから移設されたものか。


下:宇納間保育所そばの地蔵堂には多数の地蔵が集結。これも各所から移設され集められたものだろう。古いものが多い。

地蔵堂の横には立ち姿で堂内の座った地蔵たちに混ぜてもらえない二人が。いいお顔をしていらっしゃる。






地蔵の里--宇納間3--庚申塔

近隣の野仏を見るようになると、青面金剛が結構多いことに気づく。調べてみると道祖神として祭られているのは青面金剛と呼ばれる。インド由来ではなく日本のオリジナルの仏である。
ほとんどがレリーフである。手が6本ありそれぞれの手に持ち物もあるので立体フィギュアの形を石で作ると大変だし、破損しやすい。北郷村小黒木の辻には3体が集結。




風化し破損もあるが、それ以前に彫りが荒っぽい。
左端のものは妙に足が長くシナを作って色っぽい。


下:これも北郷村黒木の国道388号にある三人組。これもあちこちにあったものを道路整備にともないここに集めたものではないだろうか。
色が赤っぽいのはおそらく着彩だ。



下:宇納間地蔵の登り口にもあった。風化と地衣類の付着でよくわからない。


下:長谷野地区。これは状態がいい。持ち物もよくわかる。これを見るともとは赤く着彩されていたようだ。(クリックで拡大)




地蔵の里--宇納間--2--全長寺

宇納間地蔵のある全長寺には立派な山門と仁王がある。
仁王は木彫で新しい。古いものの破損が著しく新たに作ったものである。「古いものほどありがたい」という先入観があり、木地の色もまだ新しいこの仁王はいまひとつありがたくない。さらにスマートな現代的造形なので、不恰好な国東仁王を見慣れているとどうも親しめない。あと50年もすれば古色がついて貫禄が出てくるだろう。



本堂の手前に絵馬堂ならぬ願掛け地蔵堂がある。


小さな地蔵の胎内に願を書いた紙片をいれて奉納する。
下の土産物屋でそのミニ地蔵が500円で売っていた。
ちと高いがそれは祈祷料込みなのだろう。
お土産に一個買って帰った。なかなかかわいい。




地蔵の里--宇納間--1

宮崎県東臼杵郡北郷村は現在町村合併により美郷町となっているが我々近隣の者はもっぱら宇納間(うなま)と呼ぶ。ここは火除けのお守り、宇納間地蔵尊で有名である。かつては宮崎県北部地域の家庭の台所にはたいてい宇納間地蔵尊のお札が貼り付けてあったものである。

上:旧役場横の橋の飾りも地蔵。
下:道案内の標識も地蔵


宇納間地蔵は下の365段の石段をはるかに登ったところにあるが、息を切らして登ってみても取りたてて見る物はないので今回は省略。旧暦1月24日を中日とする3日間に開催される宇納間地蔵大祭の時は、大勢の参拝客で賑わうが普段はほとんど参詣客、観光客はいない。


途中の山門の先に曹洞宗全長寺がある。


下:山門から宇納間の町を見下ろす。山間のとても小さな町。主要道からはずれ、ついでに寄る人もない。典型的な過疎の里。地蔵も観光客を呼ぶには全く神通力およばず力不足。


伊藤伝右衛門邸--補遺

長屋門に掲げてある「旧伊藤伝右衛門邸」という看板は伊藤と同じ飯塚の石炭王の末孫、麻生太郎の筆になるもの。
(※この看板は2011年1月3日に盗難にあっている。)
私が目を奪われたのは全然それではなく一枚板のケヤキの門扉の方である。
(下)

もとは福岡市内の別邸にあったが、屋敷が漏電で全焼し、この門だけが焼け残り、ここに移築されたという。100年の歳月に表面は毛羽立ってケヤキ特有の肌合いは失われている。一枚で幅がゆうに1m以上ある。もとはどんな大木だったんだろう。今では絶対調達できないような銘木である。当時としても大富豪がその富を誇示するためにだけこんなとんでもない門を作れたものだろう。

庭はちょうど紅葉の時期であった。朝一なのでほとんど観光客がおらず、庭の散策を独占できた。



邸内にはいくつか蔵が建っている。そのひとつが人形の展示室になっていた。雛人形もあるが、昔の土人形がなかなか良かった。暗い土蔵なのでフラッシュなしで撮影したらブレブレ。軍人の人形たちが面白い。



子守人形もなかなかいい。


伊藤伝右衛門邸--石炭王の末路

伊藤伝右衛門邸の所在地は飯塚市幸袋である。あの宮崎出身のコブチ君の高名なデュオ「コブクロ」と同じと思っていたら「コウブクロ」と読むようだ。いずれにせよ吉名である。英語で言えばHappy Bagである。ちなみに幸袋出身の有名人に井上陽水がいる。

ここはかつて長崎街道が通り、伊藤邸もそれに面していたという。伊藤邸の並びには古い民家が続き、このまま歴史ストリートとして保存して欲しいくらいだ。



近所にはかつて花町もあったのではないか?面白い建築もある。


筑豊の石炭王御三家は「貝島・麻生・安川」ときてその次が伊藤伝右衛門だそうだ。貝島は石炭専業で石炭産業の衰微と運命を共にして消え去った。麻生はセメントをはじめ麻生コンツェルンとして福岡県内の政治経済になお権勢を振るっている。安川は安川電機として資本は健在だ。では伊藤は?

邸内の展示物の中で「幸袋製作所」というのを見た。これは今なお残存する伊藤の系譜に繋がる資本のようだ。現在は幸袋テクノとして各種機械のメーカーであるが正直いって聞いたことがない。伊藤邸だって飯塚市は新日鉄系の日鉄鉱業から買収しているくらいだから、伊藤の資本は実質ほとんど雲散霧消してしまったようだ。日立鉱山から日立製作所が、別子銅山から住友財閥が、足尾銅山から古河財閥がのし上ったようにはならなかった。まぁ、麻生も安川もローカルな企業で日立や古河系企業(富士通など)と比べるべくもないが。

その麻生グループも伊藤と同じく飯塚を足場としてきた。
麻生も伊藤と同様に豪壮な邸宅、大浦荘を飯塚に持っているが、まだ博物館状態にはなっていない。しかし年に数回は一般公開するようだ。折あらば見てみたいもの。というか、麻生さん、首相も務めたんだし、市に寄付して国民のために通年一般公開してよ。


下:麻生セメントも関係した石灰石の山、香春岳。五木寛之の「青春の門」に親しんだ世代ならおなじみの山。採掘により高さは半分になっているという。内陸にあるのが災いして現在では細々としか操業してないようだ。外観からはわからないがカルデラのように内側が空洞化しつつある。


Google Earthでこの山の採掘の様子を見ることができる。

より大きな地図で 香春岳 を表示



伊藤伝右衛門邸--白蓮

柳原白蓮という名前はNHK番組で聞いたことのある名前であったが特に興味を持つこともなかった。しかし伊藤邸を訪れたあとでは急に近しい名前となった。本名は柳原子で白蓮はペンネームである。
ウィキペディアで読むだけでもかなり波乱万丈な人生である。林真理子の「白蓮れんれん」などいろいろな出版物では取り上げられているが、TV/映画などにはなっていないようだ。

上右:邸内の蔵を白蓮館として彼女ゆかりの物を展示。

ネット上にある写真の種類はたくさんないがどれも美人である。きっと現代のしかるべき写真家がとればすごい美人かもしれない。大正三美人の一人だそうだ。
歌人としてはどうなんでしょう。私にはうまいのかどうなのか評価する能力がない。英和女学院時代に佐佐木信綱に師事し短歌を習ったらしいが、当時の大スター与謝野晶子の影響を大きく受けているように思える。

吾なくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思もあらじ

わだつみの 沖に 火燃ゆる 火の国に われあり 誰ぞや 思われ人は

わが命惜まるるほどの幸を初めて知らむ相許すとき

ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ恋もつ人のねたましきかな


激しい恋の歌が多いようだ。激しい恋に生きた人だから不思議はないが。写真といい歌といい、竹久夢二の絵から抜け出たような人である。邸内の土産物店で妻は竹久夢二の絵葉書セットを買った。


土産物店は例の門の中にある。ご覧のように大変趣味が良い外観。これに限らず邸内のサインボードから案内人の衣装から全体にとても品良くデザインされている。感心した。


伊藤伝右衛門邸

福岡県飯塚市の炭鉱王、伊藤伝右衛門邸はたびたびテレビ番組で取り上げられ有名だ。最近はNHKの歴史ヒストリア「柳原白蓮の生涯」で見た。かねてより一度見てみたいものだ、と思っていたが、この番組を見て行く事にした。

普通の施設は朝9時開場のところが多いから、そのつもりで行ったら9時半開場だったので30分ほど周囲でヒマをつぶして入場した。朝一番で他の観光客がいず、案内人もつかず、ゆっくりと見て回れた。日曜日だったので昼を過ぎたらごったがえしていたかもしれない。広大な駐車場が用意されていて、観光客の多さを物語っていた。

各地の観光地で古い保存民家を見学することが多く、どれも興味深いが、昔の家は似たり寄ったりだ、ということもわかってきた。しかし、この家は別格だった。これが昔の金持ちの家だな、と感じさせる。武家屋敷の質素さとは違うものがある。

伊藤伝右衛門の屋敷ではあるが、全体として彼の妻であった柳原白蓮の人生を想起させるような演出、案内である。ただの石炭成金の道楽と思うとイヤミな屋敷と思えるかもしれないが、芸術と熱愛に生きた美人の過ごしたところならロマンティックに思える。そう、われわれは美人には感情移入しやすいものなのだ。

豪壮な門構え。門だけでもこの大きさ。門の中で普通に暮らせます。昔は門番一家が暮らしていたかも。土産物店も門の中にある。

応接間から中庭が見える。とても管理がよく隅々まできれい。

二階の座敷からは庭がよく見える。観光客はここから庭を見て歓声をあげる。驚くほど広い庭ではないが。ここが白蓮の部屋だったらしい。

照明は昔のままではないかもしれないがオシャレ。
どの部屋も薄暗いのは昔の家の共通点。

階段はどの踏み段もケヤキの一枚板で艶光り。私は昔木工をしたことがあるのでケヤキ材をみるとすぐに感心してしまうクセが抜けない。

国東--埴生の宿

歴史の古い地だけに風格ある古い民家も多いが、過疎化の進む中で廃屋や映画のセットになりそうな味のある廃屋寸前もよく見かけた。

これは藁葺きの家。観光目的ではなく実際にまだ人が暮らしているようだ。ぜひこのまま残して欲しいところだが実際は維持するのは大変だろう。(国東市、泉福寺近辺)



下は神社境内の倉庫か? 漆喰壁、本瓦の建物を見ると自動的にカメラが反応する。いい味出してます。




下は黒澤映画のセットに出てきそうな小屋。


下はWindowsXPの壁紙で見たような納屋。

国東の狛犬

今回はいくつか面白い狛犬を見た。
まずは国東市の大歳神社。泉福寺の近所。教訓を垂れる狛犬。


安政4年の銘がある。井伊直弼のころだから約150年前。
文字が彫ってあるが左読みか右読みか判然としない。左からだと「物我・徳厚」。徳厚はそのままの意味だろう。物我は辞書によれば「外界の一切のものと自分」とある。

次は長安寺のもの。えらくシンプルな彫りで獅子舞みたいだ。
実物はかなり小さい。柴犬くらいの大きさ。



次は田染荘・二宮神社。これもとても小さくてかわいい。ウムム。ブサカワと言うべきかも知れない。
ここには3組の狛犬があるがこれが最も古そうだ。新しいものほど前に出てきて、最新の平成製のものは仁王のそばにある。やはり古いものほどいい。



文殊仙寺にも面白いものがあったが暗い所にあったので残念ながらブレブレ。リアルな犬の形をしている。残念ながら顔を破損している。


泉福寺の狛犬には安政2年の銘がある。近所の大歳社のものと2年しか違わないしデザインもほぼ同じなので同じ石工によるのではないだろうか。この狛犬も台座にそれぞれ二字熟語を持っているんだが、残念ながら写真のフレームに入ってないので何とかいてあったかわからない。ウェブ上を探したがないようだ。

国東の仁王--日出・浮嶋八幡社

国東市の初八坂社の仁王も大変結構であるが、これまでのところ私のお気に入りは日出町、浮嶋社のそれである。
たまたま通りがかったところにいかにも立派な神社があったので寄ってみたら、不思議な仁王を見かけた。


だいたいこのように二人が接近して並んでいるのも妙だし、本物の布の帯をしているのも奇妙だが、この意匠はどうだろう。縄文土偶とかアフリカの民俗木彫りとかを連想させるような造形。おそらく、早い話、ヘタクソな石工の手になるものか。場合によっては天才的石工なのかもしれないが。
ともかく強烈な印象を与える仁王ではある。


説明板によれば1737年の奉納されているからおよそ300年前。そうとうに古い。徳川吉宗のころ。明治の神仏分離令によりこの場所に移された、とある。実際に本殿から離れた境内の隅に置かれている。もとは本殿前か入り口の鳥居近辺かにあったものだろう。まぁ、場所はいいとしても、かわいそうなのは足元である。モルタルで足元をガチガチに固められ、足首まで埋まってしまっている。どちらが阿形だか吽形だかもにわかには判別しがたいが、左の仁王の足はどんな構造なのかもわからなくなっている。足首と足先の接続がどうも不自然なのだ。いかに転倒防止とはいえ、こんなにありがたいものにこんな乱暴な仕打ちをしていいのだろうか。

そうそう、私のアバターはこれを拝借しているのです。300年前ならもう著作権は消滅してますよね。

国東の仁王--初八坂社

泉福寺に行く手前で同じ国東市内の初八坂社に寄った。
農村集落内にある普通の神社である。
ここの仁王が大変素晴らしかった。


国東の仁王は小ぶりなものが多いが、これは大きくて堂々としている。その大きさに遠目にはセメントモルタルの新しいものか、と勘違いしたくらいだ。がしっかりと江戸時代のもの。
バランスは4,5頭身くらいでいささかコミカルであるが、バランスに破綻なくしっかりとした造形、彫りである。大きいのでとても立派に見える。説明版によれば国東で最も大きいとか。
これは大変気に入った。


阿形には「善福」、吽形には「淫禍」と雄渾なる筆致で大きく刻んである。「善」の異字体や「淫」というドキッとする字できわめて印象深い。私の思うに「善行は福をもたらし、淫行は禍をもたらす」と言う意味だろう。「善人には幸福が訪れ、悪人には災いが及ぶ」ということだろうが、「憎まれっ子世にはばかる」ということわざもあるように、世の中なかなかそうはいかないものであることは我々先刻承知済み。ともかく説明板の解説はいささか間違っているんではないだろうか。

調べてみると、漢籍に由来する「福善禍淫」という熟語があり、「(天道、)善に福(さいわい)し淫に禍(わざわい)す」と読むらしい。この場合の「淫」は特に「みだらなこと」を指すわけではなく「よこしま」の意味を持つ。
調べなかったらこの村では江戸時代にはさぞ性風俗が乱れていたのかな、とも早とちりするところであった。

この仁王、両方とも天衣がもげているし、阿形の左手が破損しているのだが、やはり明治初期の廃仏毀釈の被害者らしい。詳しくは下の説明版を見ていただきたい。(クリックで拡大)



国東の神社には横に広い、神楽殿のような拝殿をもつスタイルのものがよく見られるが、ここもそうである。その天井には面白そうな絵馬状の額がいくつも懸かっているのだが、残念ながら保存状態が悪く顔料が落剥して、何が書いてあるのかよくわからない物ばかり。もったいないことだ。


あの山門の補修したばかりの白木の部分にせめてステインを塗って欲しいところ。氏子の皆さんお願いします。
外壁には神社縁起が記してあった。(拡大で読めます。)

国東の仁王と紅葉-文殊仙寺

国東、紅葉という語でググッたら「文殊仙寺」がトップにきたので宗教的な知見は全くないが、文殊仙寺に行ってみることにした。地図で見ると両子寺からそう遠くないのだが深い山中の曲がりくねった細い道をえんえんと走らさせた。10km走ってもまったく対向車に合わず不安になったころ寺に着いた。

この寺の長い階段の参道は山陰で陽が射していなかったし、紅葉も盛りを過ぎていた。Googleでトップに来る割には日曜というのに人出もまばら。

で、ここの仁王は? 参道の階段の上がり口に仁王があるが、なんだか目立たない。苔むして緑がかっているので周囲の緑の背景に溶け込んでいる。さらに、この仁王はどちらかというとレリーフなのである。2Dと3Dの間の2.5Dくらいか。横から見ると薄っぺらい。存在感も薄いわけだ。(クリックで拡大するとよくわかる)





300段の石段というから登れるかな、と思っていたら別に何ということもなかった。なかなか風情のある寺であるが今回の紅葉はいまひとつであった。また別の機会に来よう。



国東の仁王と紅葉--泉福寺

両子山からは四方八方に谷筋が海に向かって伸びる。
真東に伸びる谷筋に泉福寺がある。国東というところは狭い後背地しかないのにやたら古くて立派な寺が密集している。この寺もまた大変立派な寺だ。住職はあの無着成恭さんらしいから普通の寺ではない。かつては曹洞宗の九州本山として栄えたという。なんとなくあてずっぽうにこの寺に来たのにアタリであった。

あの山門の中で仁王が来客を出迎えている。

下は背後から見たところ。大きくて立派な山門だ。
1524年の建立とあるからおよそ500年前!とても古い!

仁王も紅葉を眺めている。

仁王も山門に負けずとても古そうだが特に特徴はない。屋根つきなのにコケむしている。

仏殿は今時珍しいわらぶき。これも室町期の大変由緒ある建物。


ちょっとすれてるとはいえ紅葉も見事だったが、残念ながら曇天で色の輝きが出てなかった。神仏習合のなごりで境内に神社がある。

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トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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