門川八十八箇所

門川町加草に永願寺という寺がある。
九州八十八ヶ所霊場の三十三番である。
山門からは日向灘と門川湾が見下ろせ、すぐ下を日豊線と国道10号が走っている。




この寺の下の道路沿いに十数体の石仏が並んでいる。

これも例によって町内各所の路傍から追い払われた後にここに集結したもののようだ。
これを良く見ると、新富の

下左: 三番 金泉寺 釈迦如来
下右: 四番 大日寺 大日如来(クリックで拡大)




より大きな地図で 永願寺 を表示


死都日本

霧島の新燃岳が噴火し火山灰による被害が広がっている。
霧島は宮崎・鹿児島県境にあるが宮崎県の人間はあれは宮崎のものだとくらいに思っている。地図をみると新燃岳の火口は鹿児島県側にあるけれども灰は宮崎県側に降る。
下:下に桜島の噴煙も小さく見える。新燃岳の噴煙はモロに宮崎市方面へ

霧島はたくさんある火山の総称であり、霧島山という山頂はない。ドライブウェイが山上を走り、高千穂の峰から韓国岳に至る火口をめぐる縦走路は登山客に人気がある。桜島は年中噴煙を上げているので明らかに活火山であるが、宮崎県民でも霧島は死火山か休火山くらいに思っていた人も多い。

今回爆発した新燃岳火口は映画「007は2度死ぬ」(1967年)で悪役のスペクターの秘密基地として登場する。火口がスペクターのロケット打ち上げ基地なのである。
これを子供のころ見た。海女に扮した浜美枝とショーン・コネリーがこの山を登る姿を覚えている。さっき海から歩いて出発したのにその直後海女の衣装のままで霧島の山頂にいるというのはムチャな設定だ、と子供心に不審に思ったものだ。舞台となっている海岸、薩摩半島南端の坊津あたりからだと今でも車で3時間はかかるのでないか。高速のないあのころだと一日かかったはず。そもそもが荒唐無稽なお話だからそんな些末事が気になるのは地元の人間だけか。
ともかく日本が舞台、トヨタ2000GTの雄姿、国宝姫路城の白壁を手裏剣で破損、日本人ボンドガール浜美枝、わが故郷宮崎県での撮影など話題も思い出も多かった映画。あれからいつしか半世紀も経過したとは。齢をとるはずだ。

下:カルデラの外輪山から見下ろす加久藤カルデラ。正面が霧島連山。霧島はカルデラ中央にあるわけではない。姶良カルデラの桜島のようにカルデラのはずれにある。中央の道路は九州自動車道。(写真はウィキペディアより転載)



今回の爆発ですぐに想起したのは小説「死都日本」である。この小説を読んだことのある人は誰しもそうだろう。8年前に読んだが印象は強烈だった。宮崎県ではご当地小説みたいな紹介もされた。著者の石黒耀(もちろんペンネーム)は宮崎大学医学部出身の医師で宮崎には土地感があり詳しい。

「死都日本」は霧島が永い眠りから目覚めて噴火し、それに引き続き霧島火山群の母体というべき加久藤カルデラが破局的大噴火する、という設定のいわばクライシスノベルである。かつての大ベストセラー、小松左京の「日本沈没」のスケールダウン版というところ。しかし、こちらのほうが断然リアリティがある。520ページもある大部な本だが前置きは短く、いきなり大災害が始まる。主人公をめぐるストーリーはオマケみたいなもんで、ポンペイの悲劇もかくや、というような大規模火砕流の描写が迫真的。まず都城盆地周辺が、引き続き鹿児島県も火砕流に飲み込まれる。200万あまりの人間は瞬時に火あぶりで即死する。描写は今見てきたかのようにやけにリアルである。こんな規模の噴火になると被害は局地的にはおさまらず、地球規模のものになる。

著者は医師でありながら火山オタクらしく、かなり専門的な地学的トリビアが随所にあり知的好奇心を満足させる。
九州南部に詳しくない人はぜひ地図を傍らに読めばさらに面白く読めるはずである。
ただしそれはこの小説があくまでありえないフィクションとして読めば面白い、ということで、今回の爆発がさらに発展してノンフィクションになってしまってはシャレにならない。江戸時代以降の例のようにすぐに収束するのを祈るのみである。

下:霧島近辺と大規模カルデラ群。これを見ると南九州は巨大火山の巣であることがわかる。ほぼ全域が姶良カルデラの火砕流が堆積したシラス台地となっている。

この本を読んで霧島というのは実は危険な火山だということを知り、こわくなったものだ。長年宮崎県民をしているが、えびの市がカルデラの火口原だなんてことも知らなかった。
私の住まいは県北なので霧島から直線で100kmくらい離れているが大規模火砕流はそんな距離はものともしない。時速100kmでたちまち飲み込む。どうやってどこに避難すればいいか、とマジでシュミレーションしたくらいだ。ただしこの小説が描くような規模の噴火では西日本全域が壊滅するくらいの規模だから宮崎県民は避難のしようがないのであるが。

南九州のカルデラ群のうち一番最近の破滅的噴火は7300年前の鬼界カルデラの噴火でこれが九州の縄文文化を断絶させたという。縄文時代の日本(という国はなかったが)の人口は10万人内外らしいからこの時の死人はおそらく1万人未満くらいですんだだろうが、そんなことがもし現在起こったらすさまじい被害だ。1991年のピナツボ山くらいの噴火の規模でも日本だったら被害はフィリピンの比ではないだろう。

この本は出版からもう8年経過しているが、今が読み時かもしれない。これは2010年前後を想定した近未来小説として描かれている。8年前に書いたにしては8年後の現在と符合するところがある。たとえば大災害に対処する時の政権は長年政権を保ってきた保守党から政権交代したばかりの新しい政権で、首相が「原」という名前なのである!原首相は日本の危機に果敢に対処するのである。石黒氏も驚いているかもしれない。

火山学的に見ても学者たちも感心するくらいよく書けているらしい。学者が集結してこの小説を議題にしたシンポジウムもある。宮崎県民にとってはとりわけ、火山列島に暮らすすべての日本人にとっても災害シュミレーション小説として読んで損はない。

コチラに「死都日本」の舞台となる霧島火山や南九州をドラマの筋に沿ってを詳しくたどるサイトがある。なかなか視覚的かつ学術的でもある。
コチラには南九州の巨大噴火と火砕流を解説しているサイトがある。

下:昨年の秋、新燃岳の麓をドライブしたときの動画。今は
火口から3km以内なので通行禁止。おそらくあたり一面灰神楽だろう。今年のミヤマキリシマは見れないかもね。紅葉シーズンまでには収束してほしいところ。






新しい庚申塔

庚申塔はおおむね江戸時代にさかのぼる物が多いが、近所で新品の庚申塔を見かけた。
下:新品とはいえ平成二年。20年は経過しているが、江戸時代の庚申塔を見慣れた目には新品同様。(クリックで拡大)


なかなかいい面構えの青面金剛である。手の造形にやや難があるといえばあるが。足元に邪鬼を踏みつけているのも定型。
これには珍しく石工の名前も彫ってある。地元の石材店である。御影石でもなく中国製の量産品でないところがうれしい。石は安山岩のようだ。

下:この青面金剛のすぐ後ろには下半身だけの青面金剛が置いてある。そうとう古そうだ。壊された物を見るにしのびず新しく作ったのかもしれない。



門川町加草にて

より大きな地図で 平成 青面金剛 を表示

曽木の道祖神

北方町は現在延岡市に吸収合併されているので、もう東臼杵郡ではない。中心的な集落は曽木である。曽木のはずれに道祖神の吹き溜まりがある。

下:中央は青面金剛、その左右は猿田彦。右の小屋は地蔵堂。右の猿田彦は明治二十五年と年銘があるから明治中期にはまだ猿田彦は人々の心の中に生きていたんだろう。
ここは辻ではなくほとんど袋小路のまったくの村はずれであるからあちこちからここに集められたものである。シキミが生けてあるもののあまり人の参った形跡は見られなかった。


下:青面金剛の年銘は天明四年の甲辰(1784年)。古い割には状態がいい。

下:地蔵堂の中には文化三年丙寅(1806年)の年銘の地蔵、というより四国遍禮供養とあるから大師か。

下:曽木の国道218号線脇にも庚申塔が。これらも道路改良でここに移されたようだ。ここも近隣に人家もなく絶えて参る人もないようだ。

下:右は天保十五年、左は文政十一年。

小野町の道祖神

昔からの農村集落には道祖神や地蔵が良く残っている。
延岡市西部の小野(この)地区にもいくつもある。

下:辻にはいくつもの石塔が並ぶ。
左から2番目は猿田彦大神


下:右から3番目の地蔵のレリーフ

下:この辻の奥の祠にも地蔵のレリーフ。
左の碑の年銘は安永元年、1772年。杉田玄白らが「解体新書」を著したころ。240年前。何の碑なのか?


下:別の辻の地蔵と青面金剛。地蔵は首を折られた形跡。右の石碑には「沖田用水路開鑿碑 昭和8年」とある。

庚申さんの吹き溜まり

延岡市の西部、五ヶ瀬川沿いに中三輪地区がある。小さい集落のはずれの山のふもとに庚申さんがずらりと並んでいる。
下:あの竹林の下に小さく見える。(クリックで拡大)


下:近づいてみると。

下:そうとう苔むしている。人の通っている形跡が見られない。

下:すべて青面金剛である。

下:地衣類がはびこっている。手入れもされていないしお供えの水も花もない。

下:年銘を見ると、文政四年。1821年。およそ200年前。
文化・文政時代の文化を化政文化という。浮世絵の全盛時代である。江戸文化の爛熟期。我々の持つ江戸時代のイメージはおおむねこの頃。


これらの青面金剛も道路改修にともないあちこちの辻から追い払われてここに集結したものと思われる。
私もいい年だが戦後生まれともなるとさすがに庚申様を祭るといった習慣も記憶もない。地蔵や大師より庚申さんの方がずっと先に忘れられていくようだ。一度失われた慣習は二度と旧に復することはないだろう。
明治新政府は庚申信仰を迷信として排斥しようとしたらしいが、地蔵と違い青面金剛はほとんど首がつながっている。厚い石の板にレリーフとして刻まれているので叩き壊しにくかったのか。

醜悪な風景--大木の看板

貸金の看板は所かまわずである。田舎では他の看板が少ない分よけいに目立つ。農村部にはあんな高利の怪しい貸金にすがる人がおおいんだろうか。
下:空家は貸金看板に狙われる。業者の怪しさ倍増。


下:廃屋も狙われる。誰も苦情を言わないからである。


宮崎県では見かけないが、九州北部で貸金看板なみに良く見かけるのが「大木切ります」の看板である。非常な頻度で見かけるのでこの商売は結構うまみのある商売なんだろう。
下:国東半島、富貴寺そばで見かけた「大木」看板。


私はこの看板を見るとムカつくのである。
大木は集落や町並みに貫禄をつける最大のポイントである。
新興住宅地や成金の家には大木はない。大木があるということはそこの古い歴史を物語る。古い集落では大木は注連縄をつけられて大切にされていることも多い。
それが近年安全性や落ち葉の苦情などでアッサリ伐られることが増えている。さらには銘木業者の餌食になることも少なくないだろう。カネの力は強い。
大木は地域の宝である。少々の落ち葉やケムシや安全性に勝る宝である、という共通認識が広くなされることを祈るのみである。安易にこの看板の電話番号に電話するべきではない。


下:東京都杉並区の住宅街。東京の太っ腹な地主にはケヤキの大木を大事にしている人もある。落ち葉の苦情は多いだろうがそんなものを気にしていたら景観は守れない。



ちなみにこの業者はおおつかガーデン。ホームページを見ると実際の伐採例や料金がある。結構費用がかかるんだね。

醜悪な風景--貸金の看板

田舎道の民家の壁で必ず見かけるのが貸金の看板。
たぶん山間部では看板の枚数は戸数より多い。

どんな山奥の袋小路でも見かける。
下:三郷町の地域の数戸以外誰も通らない山間部で  ニッシン信販


下:日向市美々津で 太平洋信販と米日信販は看板の設置やデザインからして同一資本のようだ。両方から借りるという多重債務者をお得意にしているようだ。宮崎のローカル貸金。



しかし、どこでもかしこでも張ってあるのが「マルフク」の赤い看板だ。これは全国規模の会社だったので全国津々浦々の民家の壁にある。もしそれぞれに家主の許可を得て礼金を払っているとしたら莫大な金額だ。ところがマルフクをはじめとした貸金の看板は古い民家、なかでも倉庫や納屋、空家、廃屋によくある。ほぼこれは無断で張っていると推察できる。

昔のホーロー看板も必ずしも美観に資するものではなかった。昔の我が家は国道のカーブにあっておあつらえ向きの板壁があったので壁じゅうに各種ホーロー看板が設置されていた。例のカクイワタとかキンチョウとかである。今思えば景観を害する類であった。しかし当時の業者は家主に丁重な断りを得てわずかながらでも謝礼を置いていったのでその看板たちに愛着があったものだ。
下:これは我が家ではないがほぼこのようなもの。


マルフクはとうの昔につぶれている。しかし全国に撒き散らした赤白の安っぽいトタン看板は日本の田舎ののどかな景観を醜く彩り続けるのである。
どうか壁の所有者の皆さん、マルフクの看板は遠慮なくどんどん引っぺがして下さい。景観に関心がなく、事なかれ主義の行政に任せていると日本の景観を取り戻すのは百年河清を待つがごとし。

上:大分県安心院で。古い農家の立派な納屋の壁にもマルフク。これも空家でマルフクの餌食になったものと思われる。

山頂の廃墟

都農町の西部、宮崎平野の端っこ、九州山地のとば口に荒崎山がある。なだらかな山で山頂まで果樹園や農場、牧場として利用されている。去年の口蹄疫騒ぎで最初に症例が出た水牛牧場もこの近辺にある。山の上からは宮崎平野や日向灘まで見渡せ景色が良い。
下:荒崎山中腹から都農町を見下ろす



荒崎山の山頂は牧場になっている。そのかたわらに「フィールドストーンファーム」がある。いや、あったというべきか。
ここに行ったのは4年前で、その時もうすでに廃墟になっていた。そのころは麓から「フィールドストーンファーム」への案内看板が要所要所に設置されていた。

何の予備知識もなしに通りがかったので山中にふいに現れたこの不思議空間にシークレットガーデンに迷い込んだかのような印象を受けた。農場のようだが表示や看板がすべて英語で、アメリカンカントリー風な建物やガーデン。全く人気がなくうららかな陽の光のなかに静まり返っていた。



誰に訴えているのか不明の教訓が書かれた英語の看板を見ると何らかの宗教施設かとも思えた。

上:"Yesterday is but today's memory, and tomorrow is today's dream." 「昨日は今日の思い出であり、明日は今日の夢」 ハリールジブラーンの言葉


上:A loving person lives in a loving world. 「愛にあふれた人は、愛にあふれた世界に住む。」ケン・ケイエス・ジュニアの言葉

後にネットで調べると宮崎市の健康食品関連の会社の運営する農場らしかったが、すでにネット上にその痕跡はないようだ。ここがまだ活動中だったころにここを視察された方の報告があるが、簡単なレポートである。
この人の訪問が9年前で、そのころ建設中とあるからごく短期間しか生きてなかったようだ。そして建設途中で放棄された訳だ。レポートにもあるようにもし完成したとしても収益を得るような意図はなかったようだから永続性はそもそも危うかっただろう。奥様のカントリー趣味をきわめて大掛かりに実現したものの、金が続かなかった、というところか。
もし観光ルートに近いところに作ればそこそこお客さんが来たようにも思えるが。


上:"It is astonishing how short a time it takes for very woderful things to happen." 「とても素敵なことが起こるにはわずかな時間しかかからない、ということは驚くべきことだ」フランシス・ホジソン・バーネットの言葉。彼女は「秘密の花園」の作者だからこの場所にふわわしいかもしれない。




これは4年前の写真であるから、今はもっと荒れ果てているだろう。去年再度行ってみたが鎖が張られ立ち入り禁止になっていたので中の様子はわからない。


この農場を作られた方、小林一年氏の本「金をかけない街づくり―夢みて挑む」というのがある。当然挫折以前に書かれたものである。興味ある方はアマゾンで古本があるようだ。ネットでちょっと調べたらえらく面白いそうだ。

富田八幡神社

観音山から程遠からぬ所に富田八幡神社がある。
どうということない普通の神社だが。


その由緒沿革によれば、平安時代保元年間に鎮西八郎源為朝がこの地に駐屯、観音山に城砦を築きこの神社を厚く崇敬したとある。源為朝は滝沢馬琴の「椿説弓張月」の主人公であり、身の丈2mを越え怪力で弓の名手という伝説的な武将。鎮西というくらいだから九州で活躍したのは確かだろうが、かのスーパースターがこんなところまで来ていたんだろうか。今でも田舎だが当時は京都から見るととんでもない辺境だったはずだ。看板によればかつては為朝の奉納した甲冑が当社に保存されていたと書いてあるが。なにせ900年も前のことだからなぁ。
源為朝と観音山にはこんな伝承もあるようだ。



狛犬はごく普通のものであるが、奉納者が面白い。戦前ならではの理由である。「満州独立守備隊満期記念 昭和11年」とある。寒い満州で満鉄の警備、満期で無事除隊というのは嬉しいことだったのだろう。すでに満州事変(昭和6年)を経て戦争状態が継続し、その後のノモンハン(昭和14年)では戦死者多数、もし終戦まで勤めればシベリア送りかもしれなかった。


新富町も昨年の口蹄疫の被害を受けた地域である。
それと関係あるのか知らないが牛の絵馬が。ここいらにいる牛は乳牛ではなく黒毛和牛のはずだが。


新富町 湖水ヶ池

新富町の富田入江からすぐ北に大きな沼がある。国土地理院の地図を見ても沼の名称は書いていないが、地図に湖水ヶ池公園というのがあるから湖水ヶ池らしい。湖畔に水沼神社があるので水沼というのかと思ったが。
国道10号線や日豊線のすぐそばであり、それこそ幾度となく車で通っていながらグーグルアースで気づくまでこんな所にこんな大きな沼があるとは知らなかった。


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グーグルで見ると立派な湖に見える。緑の部分は浮き草か、藻が繁茂しているのか、と思っていたが現地に行ってみるとなんとハスで全面が覆われているのである。冬場なので水が抜かれほとんど湖底が露出していた。
下:びっしりとレンコンが。右端に突き出ているのが水沼神社。撮影したのは12月。

ここのレンコンは水沼神社のもので毎年1月にその年の権利を得た氏子が収穫するという。なかなか美味というウワサ。
この沼に突き出す形で水沼神社がある。木立と沼に囲まれたなかなか風情のある神社であるが建物や狛犬は新しい。


下:池の向こう岸が湖水が池公園。ハスが緑の頃にきたら美しいかもしれない。






新富町 富田灯台

観音山は国土地理院地図で見ると鬼付女峰(きづくめほう)とある。仰々しい名前のわりにはごく小さな丘にすぎない。三角点の標高たかだか57.4m。この山頂の東端からは太平洋が見渡せ、そこに富田(とんだ)灯台がある。
海岸からはかなり離れているが高台なので海からは良く見えることだろう。



下:灯台から日向灘を望む。砂州の手前の水面は富田入江。
漁港としても使われている。砂州の先端まで車で行けるのでサーファーには調法。サーファー密度が低いのですれっからしのサーファーにはいいスポットではないか。


富田入江は一ツ瀬川河口から海岸沿いに北に細長く伸びる入り江である。約2.5kmある。波のない内水面で2000mの直線が確保できるのでボート競技にも使われる。

グーグルアースを見ていると面白そうな地形なので行ってみた。
下:富田浜先端近くから内陸部方面を見る。観音山が小さく見えている。


右下のマークが上の写真の撮影地点

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観音山公園の石仏たち

観音山公園の石仏たちは写真で仔細に見るとなかなか魅力的である。
行った日はとんでもなく寒い夕刻で写真を撮るだけでせいいっぱいだったので、ゆっくり見るヒマはなかったのである。
石仏にはそれぞれ四国八十八箇所の国名、寺名、寺の本尊が刻まれている。ふもとの登り口の1番から始まり、山頂の広場を一周すると八十八箇所を回ることができる。

下左:七十番讃岐国本山寺、馬頭観世音菩薩
下右:四十五番伊予国岩屋寺、不動明王
(クリックで拡大すると字が読める)


下:花の手向けられた石仏も。
下左:七十九番讃岐国高照院、十一面観世音菩薩
下右:六十四番伊予国前神寺、阿弥陀如来



下:いずれも馬頭観音。それぞれの寺の本尊であるが、これらは寺の名がない。

下:いずれも千手観音

下左:五番阿波国地蔵寺、地蔵菩薩
下右:四十二番伊予国佛木寺、大日如来



大正時代といえどもこれだけの石仏を揃えるには並々ならぬ費用がかかったはずだ。当時の近隣の人々の熱い思いが込められている。今は苔むして風化しつつあるが今だに花を手向け祈る人も少なくない。たかだか石の塊かもしれないが多くの人々の思いのこもったこれらの石仏を面白半分に叩き壊すというのは畜生のなす業。残念ながら仏罰はあまり期待できないので法の手による罰を期するのみ。しかし犯人は少年だから氏名も公表されていないし、処罰もたいしたことはないな。

まぁ、明治初期の廃仏毀釈の折には全国的にハンパではない大規模な破壊が行われたのであるがその実行者たちに大いなる仏罰が下ったという伝承は聞いたことがない。あえて言えば仏をないがしろにしてその後国家神道の道を邁進し戦争に突き進んだ日本自体が敗戦という仏罰を受けたのかもしれない。



新富 観音山公園

昨年12月、新富町観音山公園にある石仏114体のうち、23体が倒れ、このうち4体が粉々に砕けているのが見つかった。
県民は「なんという心ない犯行だろう」と驚いた。(asahi.com)

その後、地元の無職少年二人が警察に捕まった。「面白半分でやった」と理由にもならぬ犯行理由を述べた。きっと余罪も多いかもしれない。「面白半分」が理由になるならなんだってできる。親の代から生い立ちを分析しないとこんな人間の精神構造は判明しないだろう。なんとか仏恩にすがり更正して欲しい。

この公園は日向灘を一望できる小山にあり、石仏の並ぶ散策道は、「新四国八十八ケ所」などの愛称で親しまれている。
下:山頂から新富町市街を見下ろす。航空自衛隊新田原基地はあの台地の上にある。



下:公園の山への登り口にある碑。今回のものかわからないがこの石仏も折られた痕跡がある。あの着色もイタズラなのではないか?えらくケバイ唇だ。


標高差30mほどの山頂は平らになっていてその周回路沿いにズラリと石仏が並んでいる。基壇に1番から88番まで番号と四国八十八箇所の寺の名が刻まれている。急ぎ足ならものの5分で八十八箇所を回れるのである。


このあたりには四国からの移住者が多く、彼らが故郷を偲んでここに四国八十八箇所を再現した、とも言われている。
石碑には大正11年とあるから約90年前。およそ100年前のものとなれば歴史的文化財と言っても過言ではない。実際に石仏は時代が付き風格がある。昨今の量産品中国石仏にはない味わいがある。
下:補修された仏像。今なお無残。
左:三十八番土佐金剛福寺、三面千手観世音菩薩
右:三番阿波国金泉寺、釈迦如来
(クリックで拡大すると寺の名まで読める。)



リニア試験線の今

かつて宮崎県都農町にはJRのリニアモーターカー実験線があった。1979年に完成し1996年まで実験が続けられた。その延長7kmの高架橋はいまでもそのまま存在する。始点から終点までJR日豊線と併走するまったくの直線路である。このあたりの宮崎平野では直線路が長いので各駅停車の電車でも駅を出るとすぐに最高速度110km/hに達する。
現在では高架橋の上にはズラリと太陽光発電パネルが並べられてとても細長い発電所となっている。なんだかもったいない活用法ではなかろうか。
下:東都農駅から見た日豊線と左手のリニア実験線高架


下:リニア高架橋の上は太陽光パネル。延々7km並ぶ。

下:高架橋の南側終点。


かつて運輸大臣のときこの実験線を視察した石原慎太郎は「日本の誇るリニアが鶏小屋と豚小屋の間を走っているのはいかがなものか」と発言し、宮崎県民の反発を買った。たしかにクサイことは事実であった。しかし今、あの匂いを嗅ぐことはできない。

都農町は畜産県宮崎でも特に盛んなところ。昨年の口蹄疫流行の最初の発生地でもあり最も被害の大きかったところである。県道302号線沿線でもいまだに真っ白な石灰の消毒にまみれたままで再開できていない豚舎があちこちに見られた。



下:日豊線、この近辺の車窓風景。季節は春。

中国石像

近所でもあちこちで中国製と思しき石像を見るようになった。
どこにも原産地表示がないので断言はできないが。

下:近所の小さな祠に置かれている布袋。(日向市梶木)
古橋石材のカタログにあるものと類似


下:古橋石材のカタログから。観音もある


下左:近所の墓石展示場で観音付きの豪華な墓を見た。展示されているだけなのにすでにお賽銭が上げられていた。
下右:近所の墓地の無縁墓にある地蔵(門川町庵川)



下:古橋石材では地蔵も二宮金次郎も在庫豊富。悪趣味といえば言えるが見ていたらひとつ欲しくなって来た。


中国墓石

近所の石材店をのぞいてみると、最近の墓石のデザインの多様さに驚く。昔の墓地では見かけない豪華な墓石が主流だ。
墓碑銘がまだ刻まれていない半完成品が輸送用梱包材のまま積まれている。輸送伝票を見ると泉州乙豪石業有限公司とある。
すべて中国製である。


下:墓石の伝票。門司港に陸揚げされている。(クリックで拡大)


下:墓石の合い間にはいろいろな既製品の石像が無造作に並んでいる。品物は悪くないのだが全然ありがたくない。
<
下:墓石の間に寝転がる人も。

下:こんな所に既製品の狛犬が


下:アンパンマンやドラえもんも見かけるが、これは石材店の看板がわりだろう。

下:長崎のグラバー園下の土産物屋街で見かけた全く同じ物。これを墓石にするというのもいいし、ニュースタイルの地蔵として路傍に設置するのも面白いんじゃないだろうか。

こんなのは完全に著作権に触れる。中国お得意の海賊版だろう、と思っていたら、そうでもないようだ。ネットで調べるとこれが販売されているのである。タカオという会社がシンエイ動画の許可を受けて製造販売している。実際の製造は中国だろうけれど。上の写真くらいの大きさだと10万円はするようだ。

スヌーピーやピングもある。こんな墓石だったら遺族はどんな顔をして墓参りすることだろう。意外と楽しいんじゃないか?子供たちは喜ぶだろう。

古橋石材のサイトでは他のさまざまな石像がネット上で販売されているのを見ることができる。どうやらどこの石材店の商品も製造元は同一のようだ。

石仏のメードインチャイナ

ここいらでたまーに見かける野仏は古くて稚拙であるが、たまーにしか見ないのでありがたい。しかしそれも大群で現れるとそうでもない。

下:耶馬溪羅漢寺の五百羅漢。ひとつひとつ見ればありがたくなくもないが、これだけうじゃうじゃいるとジイッと鑑賞する気はなくなる。


下:ほとんどアウシュビッツのホロコースト状態


でも羅漢寺のものはまだ時代もついているからいい。
そこいくと篠栗の南蔵院の羅漢たちは新品ばかりでこれでもか、というくらいたくさんいるのでいよいよありがたくない。憎たらしいくらいである。


下:上の矢印の先を拡大するとこの状態。

石仏としては昔のものに比べて高度な工作がされているのかもしれないが、現在ではノミとカナヅチではなくコンピュータとサンドブラストでスイスイ作れるはずだ。
しかもおそらくこれらはすべて中国製と思しい。

ウーム。中国製と思ったとたんに失望度が増す。別に中国を卑下している訳ではないが、同じような雑貨が民芸店で見ると良く見え、ダイソーで見ると有難くないのに似た感情である。こいつらの表情もビミョーに日本人らしくないところがある。元来なら石仏は中国が本場なのかもしれないが。

下:地蔵も不動も新品がズラリと並ぶ。見ただけでは原産地はわからないが、たぶん中国製。



なにせ近年、日本の石材業界は販売のみで製造は中国にアウトソーシングがもっぱらのユニクロ状態らしい。こんな個人奉納の石仏は価格勝負になるだろうから日本の一匹狼の石工では歯がたたないだろう。あくまで芸術ではなく普段使いの量産品なのである。

この不動たち、一見しても全然品は悪くなさそうだ。なにせ石のカタマリだから中国製だからと言ってすぐに壊れるとか有害物質が染み出ることもないだろうし、著作権がらみのトラブルもないだろう。

下:地蔵のツルリとした表情もなにやらゆかしく、美男におわす。








針生島

地図で佐世保から長崎までを見ると40km程度にしか見えないので車で1時間くらいか、と考えていたらホテルの係員に聞くと1時間半だという。ネットで地図検索すると西海橋経由グラバー園までで70kmほどある。結構あるものだ。

長崎県は対馬や五島という大きい島々を含めても約4000平方キロで宮崎県の半分しかなく、せまくて平野もない。しかし人口は宮崎県より30万人多い。来てみてわかったのだが、長崎県はリアス海岸ばかりなのでやたらと海岸線が長いのである。たぶん北海道を除けば最も長いのでは?その津々浦々に漁村があり集落があるので人口も意外に多いのではなかろうか。国道202号、206号を走りながらそう実感した。


(上:針生島と早岐瀬戸   クリックで拡大)
佐世保から西彼杵半島に渡るには針生島を経由する。佐世保と針生島との間は細い水道で隔てられる。これが早岐瀬戸(はいきせと)である。予備知識なしに国道沿いから見ると流れもあるからほとんど川にしか見えない。こんな不自然に細長い水道が自然にできたのが不思議である。たぶん海水面が低かった氷河時代には川だったはずだ。水深が浅く、桁下の低い橋があるので運河としても役に立たない。
ハウステンボスは針生島にありこの早岐瀬戸に面している。

西海橋が架かるのが針生瀬戸。ここに西海橋公園があるので寄ってみた。折から満潮に向けて大村湾に潮が流入していた。大変な潮の速さである。最深部54mというからここを堰き止めるのは容易ではないように思える。別に大村湾淡水化が検討されているわけではないが。

大村湾は実際上は海ではなく湖ではないのか?という意見もあるらしい。浜名湖やサロマ湖も似たような塩水湖で外海と直結しているので大村湾となんら変わるところはない。これが湖として広く認知されるなら、長崎県のイメージは滋賀県と共通するところが出てくるだろう。ロマンがある。

下:グーグルアースの写真でも潮流が見られる。


下:この潮流の動画は西海橋公園から撮影したもの。



グラバー園 自由亭

娘は出かけた先で必ず食べた物の写真を撮る。よそのブログでもよく旅先のの食事の写真を見かける。かつてはバカにしていたが、試しにマネしてみたら後々思い出となってなかなかよろしい。食うことも旅の思い出の重要な要素だ。

グラバー園内に自由亭という喫茶店がある。旧検事正邸を移築したもの。窓から長崎の町が見下ろせる。なかなかいい雰囲気だ。コーヒーもケーキもおいしかった。

下:たまたま客が途絶え空席ばかりになったところ。

下:サイフォンがずらりと

下:グラバー邸の馬屋から自由亭を見上げたところ

佐世保バーガー

当初はハウステンボスで遊ぶつもりだったので佐世保にホテルをとっていたが、あまりの寒さに屋外のテーマパークでは長時間いられないと思いハウステンボスはやめた。ホテルはキャンセルしなかったので泊まりは佐世保。
夜着いて朝一番出立なので佐世保バーガーを食べるためだけに佐世保に泊まったようなものであった。


駅のそばではログキットが有名らしいがテイクアウトのみなので他の店をあたった。「山本コーヒー店」というのが平凡で芸のないネーミングからして意外といいんじゃないか、ということで行って見た。
昭和の雰囲気濃厚の喫茶店。業務用冷蔵庫の横の席、店のおばさんがひっきりなしに冷蔵庫をバタンバタンと開け閉めするわきで待たされることなんと35分!マックの10倍の待ち時間でやっと出てくるのであるから究極のスローフードか。味のほうは?うーーむ。私には5分で出てくるモスとの決定的な違いは見出せなかったが、まぁ、たかだかハンバーガーであるから特別な期待は禁物。コーラとのセットで980円。


夜店通り一帯は飲食店が多く夜の街。地方都市の中心部はどこも寂れているものと思っていたらたいへん賑やかでおどろいた。東京などと違い平屋か二階建てばかりなので昭和30年代の映画のセットのような雰囲気。おもしろい。


町の中心部、駅前の繁華街に大きなカトリック教会がある、というのはさすがキリシタンの土地。  
下:三浦町カトリック教会



肥前浜--廃屋

古い町並にある家は必然的に古いから現代人が住むには不都合である。観光地である肥前浜宿の酒蔵通りにも廃屋あるいは空家が散見されるが、一歩裏を覗くとさらに。

上:もとはかなり立派な屋敷である。軒の奥行きの浅いのは蔵のような意匠。寄棟屋根がおしゃれな白壁の家。このまま朽ち果てさせるのはいかにももったいない。
下:その隣の家。これはこのまま朽ち果てても惜しくない普通の廃屋。


下:これは廃屋ではないが廃屋間近(失礼!)。文字の欠けたホーロー看板が風情を添える。観光のメーンストリートにあるがこれはこれでなかなか趣があってよろしい。

下:朽ち果てた造り酒屋のレンガ煙突。滅びの町を感じさせる。それだからこそ人をひきつける風情がある。


下:これは嬉野市役所近辺の道路沿いで見た家。これまた立派な廃屋。電線が入っているのでまだ人が住んでいるのかもしれないが。こんな漆喰壁の家があちこちに残っているのが佐賀平野の豊かな歴史を感じさせる。伝統的に貧しく文化果つる地、宮崎県ではおいそれとこんな家は見れない。もしあればたちまち市の文化財指定だ。

下:嬉野では西岡家が幹線道そばにあり覗いて見たかったが残念ながら修復中閉館であった。レンガや植木鉢を埋め込んだ塀がなかなか素敵。いずれ機会があれば、暖かい季節にまたゆっくりと佐賀県を回ってみたいもの。嬉野や武雄にも古い建物がたくさん残っているようだ。

肥前浜-酒蔵

肥前浜に古い情緒が残るのは酒造場が多いからだろう。
造り酒屋はたいてい地域の素封家で立派な普請であることが多い。それが密集しているのだからいい町並みになるわけだ。酒好きにとってはお土産に困らない町である。
当方、下戸なので何も買わずに、どころか1円も落とさずこの町を去ったのが土地の方々に申し訳ない。

(下:クリックで拡大)


下:中島酒造、ブランドは「君恩」

下:光武酒造ブランドは「金波」。清酒は近年消費低迷なので焼酎に進出したと見える。「魔界」は「魔王」のパクリか?

下:峰松酒造場。ブランドは「菊王将」

下:飯盛酒造 レンガ煙突には「玉ノ香」という文字が見えるが、これは以前使っていたブランドらしい。現在のブランドは「福千代」。

下:酒造の谷間。蔵の壁がカラープリントのトタン張りなのが残念。ぜひ行政の力を借りて板張りに戻して欲しい。

下:あのミカンたちは何かのおまじないか、正月の装飾か、はたまた子供のいたずらか。


肥前浜-1

ネット上で伝統的町並み地区を見ると佐賀県鹿島市の肥前浜というところがよく取り上げられている。
ボロボロの漆喰壁の商家や廃屋寸前のわらぶき屋根の民家の写真を見ると「こりゃー早く行かなきゃ補修されちまうぞ」と気がはやるのである。
というところで長崎に行く途中で寄ってみた。鹿島市は高速ICから結構遠い。
下:JR肥前浜駅も木造でレトロ。無人駅である。


古い町並みは駅から200mのところにある。
古い街道なので大変狭い通りなのに、併走する国道207号の渋滞を逃れるためか車の通過が多くのんびりと歩けない。
正月だが寒さと雨という悪条件で観光客はほとんどいない。人通りのない古い家並みの通りに日の丸の旗。つげ義春の「ねじ式」のひとコマを連想する。

下:ここいらが写真を撮るベストポイント。

下奥:修復中と思しき建物もある。さすがにこれ以上劣化すると文化財ではなく廃屋になるというところか。修復は結構だがピカピカの新築状態になると元も子もない。時代をつけて修復して欲しい。


下:ちょっと離れたところに藁葺き屋根家屋が残っている地区があるのだが、観光用に作られたと思しき数件の「新築の藁葺き家屋」が並んでいるのをみて幻滅した。そこだけ生活感がなくほとんど映画のセット状態。これが味を出すにはあと50年かかるんじゃないか?

人々が普通に生活する狭い小路にずかずかと入り込んで見て回る観光客としては、いささか心苦しいような日常空間なのである。

下:これがオリジナル藁屋根。味わい深いが住むのは大変そう。家主の心意気にだけ依拠した町並み保存には限界がある。









グラバー園の阿吽

正月にグラバー園を訪ねた。初めてではないので特に目新しいものはない。竜馬ブームに乗ってどこもかしこも竜馬だらけ、というのが以前とちがうくらいか。
グラバー邸内に狛犬が陳列してあって、これがキリンビールのラベルのモデルになった、というが、どうも似ても似つかぬように思える。グラバー自身はジャパンブルワリーの重役で下のラベルデザイン(明治22年)は彼の意見に基づく、とキリンのウェブサイトにある。

下:これがその狛犬。透明度のよろしくないガラスケースに収められていてうまく写真が撮れなかった。


グラバー園の周囲かつては外人居留地だったのだが、現在は一般の住宅地に侵食され、なかには園内に飛び地のように一軒の民家があったりする。前回来た時に、ドックハウスから降りる通路わきに超原色の緑の民家があって驚いたものだが、その家は健在であった。長崎の最大の観光資源なんだから周囲の景観には制限があってもいいのではないだろうか。


グラバー園の下の中華料理店の前に中国版の仁王が。
阿吽ではなく「順風耳」と「千里眼」という名前。
立ち方がいかにも中国風。(クリックで拡大)

初詣-香椎宮

九州の元旦はとんでもなく寒かった。
正月は福岡で過ごしたので、もよりの香椎宮に行ってみた。
毎年大変な人出であるが、今年は参道の大渋滞もなくスッと臨時駐車場に入れた。ところが拝殿に続く善男善女の長蛇の行列を見たら寒気の中に並ぶ勇気はなく、早々に退散した

下:ここの狛犬のデザインは変わっている。極端に頭が小さい。ヘラクレス狛犬とでも呼ぼうか。


次に篠栗の南蔵院に行ってみた。
山間の谷間、それも山の中腹にあり、これがまた恐るべき寒気のたまり場。涅槃仏を見てそうそうに退散。

建物、通路、石仏がどれも新しいものが多く、ありがたみが薄いところであった。ここでは宗教がまだ生臭い精気を放っていて、文化財になることを拒否している。韓国人とおぼしき団体観光客がこの寒さの中、大勢来ていた。

上左:魚を持った弘法大師?後日調べたら「鯖大師」というそうだ。四国徳島に「鯖大師」という寺がある。 上右:どでかく派手な不動

下:門前町や参道の土産物屋で豆を売っているのはどうしてなんだろう。実は去年富貴寺の門前で花豆を土産に買ったのである。昔はお参り土産の定番だったのかもしれない。


プロフィール

トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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