藤の花咲く廃屋

田舎道を行くとよく廃屋を見かけるようになった。これからの日本は高齢社会がますます進み、人口の急減が予想される訳だからそこらじゅう廃屋だらけになるだろう。若い世代は高齢世代より少ないのだから廃屋の買い手もない。不動産は間違いなく値下がりする。買い手がいるとしたら中国人になるかもしれない。

木城ではおもしろい廃屋を見かけた。ほとんど自然に還りつつある。
下:家屋全体がツルに覆われあばら家の醜態を隠して美しいくらいだ。


下:藤の花が美しい。ここいらに玄関があったものか。

下:ウラから見るととても家とはわからないくらい緑に覆われている。ここまでくると見事。向こうの家も廃屋になっている。ここは交通量の多い広域農道沿いで別に過疎地域ではない。

下:電柱にツルが這い登る。NTTさん、早く処置しないと夏ごろには大変なことになるよ。


高鍋城-3

高鍋城は舞鶴公園になっているし、護国神社もあるし舞鶴神社も広い社域を持っている。そこで町内のいろんな記念碑や奉納品が一挙に集うことになる。だから城内はそこらじゅう看板だらけ、という事態になる。ここの城内の看板は癖のある字の浮き彫りばかり。同一の看板屋の仕事と思われるので町内の公共施設の看板を独占受注しているのかも。田舎ではありがち。個人的には好きになれない字である。


上の看板にもあるように寒山拾得を祀る小さな堂もある。

森鴎外の小説に「寒山拾得」という作品があるし、高校の漢文の時間に聞いたことがある程度で寒山が姓で拾得が名前か、くらいの知識しかなかったが、調べると古代中国の伝説上の二人の僧の名前だという。つまり二人分の名前。
下:ホーキを持っているほうが拾得である。たしかに二人とも刀傷?がある。


下左:寒山拾得石像の来歴。(クリック拡大)石仏ではないんじゃないか? 下右:同所にある石像。これも寒山拾得なのかどうかは知らない。でも右の像がホーキを持っているような。


下:資料館そばに鍛冶場が再現されていて二人の刀鍛冶が白装束で刀を打っている。幼い頃となりが鍛冶屋でこんな姿をいつも見ていた。「しばしも休まず槌打つ鍛冶屋~」という歌そのまんまだった。見る間に鉄片から包丁やハサミが出来上がっていくのを飽きずに眺めていたものだ。


もちろん人形である。

下:最近芸能界にも城マニアが多い。




高鍋城-2

高鍋城の本丸(政庁)跡は大きな広場になっている。昔の政庁の平面図を示す看板が立っている以外は昔をしのぶよすがはない。

下:本丸平面図(クリック拡大)

この広場の端に護国神社がある。境内に砲弾が奉納されている。日清日露戦争の折には各地の神社に砲弾が奉納された例が多くある。これは日露戦役のもの。奉納の趣旨が記されている。

下:「戦利兵器奉納之記」是明治三七八年役戦利品一ニシテ我ガ武勇ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ大捷ヲ得タル記念物ナリ茲ニ謹ニ之ヲ献シ以って報賽ノ微衷ヲ表シ尚皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル 明治四十年三月 陸軍大臣 寺内正毅

下:裏面に奉納品目録の記載がある。判読しがたい文字もあるが補うと。
戦利品  連発歩兵銃 一、同 銃釼 一、 実包挿弾子 一、 八珊七粍弾 二、 二十一珊鉛套堅鉄弾丸 一
とするとこの砲弾は21cm砲弾ということか。


よその神社でも見かけた。下左:大分県臼杵城護国神社の砲弾(レプリカ) 下右:阿蘇西野宮神社の砲弾。ややもするとインドの聖地にあるリンガと間違えそうな形である。インド人ならナデナデしていくに違いない。

高鍋城

高鍋の町は数知れず通過したことはあるが、国道10号線から中に入ることはめったにない。ということで高鍋城に行ってみた。ナビでは高鍋城では出てこず、舞鶴公園で出た。
高鍋藩は石高3万石の小藩だったので城もたいしたことはない。遺構もあまり残っていないのでオッと驚くようなものは何もなかったが、1時間は楽しむことができた。お天気の日曜というのに人出はあまりなかった。これが2・3週間前だと花見客でごった返していただろう。
下:駐車場近辺の石垣がもっともよく城跡を残している。やはり石垣あってのお城だなぁ。ここで期待が増して上に登ると上にはたいしたものはないのである。土塁やかつて建物があったという広場はあるが、素人には何やらわからないので興味がいや増さないのである。

下:本丸に登る石段。小さな石灯籠がいたるところに置いてある。

下:見晴台から高鍋市街を見下ろす。樹木が生い茂りすでに見晴らせなくなっているうえに「台」はどこにもない。ここのベンチに腰掛けて弁当を食っているとやって来た他の人々が「木で景色が見えないじゃないの」と不満をもらしていた。高鍋は内陸と思っていたら意外と海が近い。大津波の射程範囲である。

下:三層櫓跡は梅林になっていて梅の実がたくさんなっていた。その下の石垣がこれ。石を見ると数百年の風化を感じさせないので新しい物かもしれない。立ち入り禁止の無粋な看板が。

下:この石垣のスキマでシマヘビが交尾中。春だね。


下:この石垣前の広場は児童遊園になっているが大木が今しも伐られた切り株があちこちに。広場の日照を確保するためか。まだ内部が空洞化してないのにもったいない。大木は金では買えないのに。それにしてもこの無粋な看板をいつまで放置するつもりだ?切り株に激突して転げるマヌケなウサギのためなのだろうか?


城ファンによる詳しい分析はコチラで。

下:最近芸能界にも城マニアが多い。




高鍋湿原

漫然と県道24号を走っていたら「高鍋湿原」という案内が現れた。
テレビのローカルニュースでよく聞く湿原である。
さっそく寄ってみることに。無料なのがいい。

全く予備知識がなかったので、意外なロケーションに違和感。
湿原というからには海や川に近い低湿地をイメージしていたのだが、台地の上の小高いところにある。深い谷を挟んで東部と西部に分かれている。順路を行くとまず東部湿原の遊歩道に踏み入れる。ところがどこにも水が見当たらず、単なる野原にしか見えない。あきらかに渇水で干上がっている。遊歩道から見る下の写真でこれが湿原だといわれてもだれも納得しないだろう。


早々に東部湿原を通り抜け谷を渡る橋を渡り西部湿原に。
下:つり橋がかかっている。ハッチョウトンボのことを言いたい気持ちはわからんではないが、なんで行政の発想はこんなにひどいのか。人々は自然を見に来てるんだから人工物は極力目立たぬように控えめにデザインするべき。


下:西部湿原も乾燥がひどい。水溜りだったところにひび割れも見える。


下:ようやく湿原らしい水溜りが現れ納得する。

下:向こうの杉林の上が台地の表面になっており、やや低いここに地下水が沁み出してくる。

下:いたるところに黄色いサワオグルマが咲きほこる。ありきたりの花に見えるが湿原植物という。


妙なところにある湿原だな、とは思っていたが改めてネットで調べると、これは人工の湿原だった。下の谷にダムを作った時、表土をはがされたあと表面になった不透水層の上から地下水が沁み出し湿原化したという。だからこの湿原の歴史はたかだか40年とか。
下の図は調査に基づいたものではなく、私の想像図である。

詳しくはココに写真が多い。

渇水やまず

この1週間も雨らしい雨が降らず、渇水が止まない。
山の常緑樹の落葉はいよいよひどい。落葉樹が一斉に緑の若葉を出しているのに比べると対照的。
下:延岡市東海から安井に至る県道212号線沿い。


下:延岡市東海から安井に至る県道212号線沿い。

下:竹林の枯れも目立つ。延岡市安井

下:都農町日豊線沿いの竹林も黄色く変色。田には水が張られているが。

下:都農、川南の県道302号沿いでは竹の花が一斉に咲いている。雨不足のせいなのか、60年に一度の開花期なのか?不吉な前兆ではないことを願うのみ。

下:はじめは去年のススキの穂がまだ残っているのかと思ったが竹の穂なのである。あまりお目にかかれるものではない。

美々津の町並み

美々津の伝統的町並みはおなじみなので多言を費やすまでもない。ネット上でもあまたの画像を見ることができる。

ここの古い町並み自体は休日には観光客でごったがえす日田の豆田地区にもひけはとらないと思えるが、いかんせん観光ルートから遠くはずれた孤立した小さな観光地なので観光客はとても少ない。土産物屋もほんのわずか。住民に落ちる金も微々たるものだろう。なんとかしたいものだが。



下:向こうに海軍発祥之地の石碑が見える。


下:電気店もクラシックな店構え。建築自体は新しいようだ。集落ぐるみで町並みの保全に取り組んでいるのがわかる。

下:洋館も2棟ある。これは医院のあと。板壁ペンキ塗りの洋館風建築は医院や官公署に多い。美々津もそうである。

下:ポストのあるのは郵便局跡。きれいに保存されている。

下:町外れで素敵なトタンの家を見た。


美々津港

美々津港はかつては高鍋藩の藩政時代より海運の要衝として栄え、上方交易の回船も寄航した。しかし1923年の日豊線開通以後は商港の役目を終えた。耳川流域の木材集散地としても相次ぐダムの建設で筏の流下ができなくなり廃れた。現在は小さな漁港にすぎない。
下:昔の写真(大正期)を見ると船の帆柱が林立していて殷賑を極めていたことがわかる。美々津の伝統的町並みを作った昔の繁栄もうなづける。左端の森が立磐神社のようだ。これは上流方を望んだもの。現在は神社のすぐ上に10号線の耳川橋梁がある。昔はそのずっと上まで泊地だったようだ。


下:権現崎の下に千石船が浮かぶ。手前は筏流しで耳川流域から集められた材木。権現崎には松の木が見られる。いつしかなくなったものだろう。

下:別バージョンで権現崎。松林がよりはっきり確認できる。


下:現在の様子。対岸は権現崎。

下:港から耳川上流方を望む。橋は国道10号線。

下:岸壁の一角、立磐神社そばに日本海軍発祥之地、の碑が建っている。神武東征の故事に由来する。内閣総理大臣米内光正書とある。詳しくはよそのサイトで。

下:立磐神社。一番上の写真を見るとかつてはこの広い駐車場は水面だったようだ。美々津の伝統的町並みを観光する車はここに駐車できる。

下:昔の立磐神社


美々津 権現崎 港柱神社

下:耳川の河口にある水静かな美々津港。対岸の山が権現崎。小さな白い堂の上の森の中に港柱神社がある。
手前の船はこちら側の岸にある立磐神社の大祭(11月)の飾りつけをしている。2007年撮影。



下:これは4年前の港柱神社の写真。鬱蒼たる木立の中にある。


下:これが今の写真。背後の木々が伐られてしまった。周囲には切り株や丸太がゴロゴロ


下:港柱神社由来


下:神社の下にある堂


下:堂の中には極彩色の不動が

美々津 権現崎 牧水歌碑

美々津の権現崎はこんもりとした照葉樹林に覆われている。
遠目には渇水による葉の変色や落葉はそれほどでもないが、急斜面ではやはり茶色になっている木も見られる。
下:林内はやはり落ち葉が多い。林内も明るい。



下:林内の道は時期によってはこのようなコケのじゅうたんになるのだが。
乾燥の極にある今ではとても望めない。これは数年前の写真。



下:岬の突端の一角に牧水の歌碑が立っている。左端

下:美々津権現崎にて 「海よかげれ水平線の黝(くろ)みより雲よい出で来て海わたれかし」牧水

まったく黒雲湧き出でて一雨降らせてくれ、と言いたくなる。
牧水生家は耳川を10kmくらい遡ったところにある。牧水の若い時代、鉄道はまだ開通していないから船が交通手段だったころには美々津は交通の要衝だったはず。


下:牧水かるたの中にもこの歌が。

赤川温泉の桜並木

ネット上で久住南麓赤川温泉の山桜並木のことを知り、今年はぜひ行ってみよう、と考えていた。しかしネット上にこの桜並木の開花情報はないし、そもそも情報量が少ない。
平地では山桜もソメイヨシノもとっくに散ってしまったが標高900mの高地なら今頃が見ごろか、と出かけたのである。
くじゅう花公園近辺では満開の桜も見られたが。
下:結果はこれ。(2011年4月17日)


ご覧のように全く花はない。やれやれ一足遅かったか、と思ってよーく見ると。
下:ツボミが。なんとまだ咲いていないのであった。



「うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花 」 我が母校、延岡高校に若山牧水の歌碑があったことを思い出すのである。
この様子では4月末くらいが見ごろか。なんて遅いんだ。
また来年に楽しみを取っておこう。

帰り道、ガンジー牧場先の県道669号で水の張られた田と山桜の素敵な取り合わせが見られた。県道412号沿線でも山桜、ソメイヨシノの満開を楽しむことができたので満足しておこう。





※後日5月5日撮影(すでに散った後)の写真もある。



より大きな地図で 赤川温泉の山桜並木 を表示


くじゅう花公園

東北大震災の翌々日、約ひと月前にくじゅう花公園を訪れたら、まだ冬季閉園中であった。周囲では盛んに野焼きが行われていた。4月も半ばなのでそろそろ花いっぱいになっただろうと期待し出かけた。
駐車場は車でいっぱい。しかし車から降りると肌寒い。おまけに曇っていて陽の光がない。ここは標高900mの高地なのである。だいたい気温は高度100mにつき0.6度下がるといわれるから単純計算すると平地より5.4度ほど低いことになる。

下:ということでいまひとつ春を感じさせぬ光景。花も少ないが緑も元気がない。全般に色味に乏しいさむざむとした光景。


下:これは遅咲きのチューリップ。当然まだつぼみ

下:早咲きチューリップの畑にだけ人が集まっている

下:おりからの少雨で土はカラカラに乾燥し、すべての植物が水を欲しがっている。一雨降らないとこの公園は元気が出ないんじゃなかろうか。向こうの杉の木も赤茶色に変色。

下:たまに花盛りの木があると観光客がいっせいにカメラを向ける。


結論。もう少し暖かくなって雨が降った後に行くべきであった。










干天の慈雨いまだ

宮崎県で春先ではあまり例のない少雨が続いているという。
ダムの水の枯渇や、農業用水の不足から田植えの遅れ、露地物の生育不良など影響が出始めている。

山の斜面のカシなどの照葉樹が茶色に変色しているのはなぜかな、と思っていたらやはり渇水のせいらしい。カシが身を守るために葉を落とすという。
山の緑がいっせいに芽吹くときだから樹木はもっとも水を必要としているはずだが、まとまった雨がなかなか降らない。

今が旬のタケノコも食卓に登らない。店で皮付きタケノコの値段を見たら目を疑うほど高かった。皮を剥いたらどんだけ小さくなるんだ、という20cmくらいの小さなものが500円ほどする。

東北では今年の稲作はあまりあてにできないのだから、こちらではそろそろまとまった雨が降ってくれなくては困る状況になってきた。

下:門川町内で。斜面の土壌の被覆が薄いところほど変色している。なんだか秋冬の山を見るようだ。雨が降ったら生き返るんだろうね。心配だ。


下:北川の干上がった河床と山の斜面の茶色く変色した常緑樹。川原の新緑がキレイなのは伏流水があるからか。 (4月17日)


下:杉の木も変色しはじめた。くじゅう花公園では土は砂漠のようにパサパサに乾燥し草花の生育はさっぱり。シバサクラもこの元気なさ。

地券から見る県の変遷

下:これは地券(土地の所有権を示すために明治政府が発行した証券)である。延岡市内の人に譲ってもらった。これはお宝だ、ヤフーオークションで売って儲けよう、と思ってチェックしてみたら地券の出品はたくさんあり1000円もせずバカらしいのでやめた。古い家ならたいてい仏壇の引き出しにでも転がっているようだ。


日向国臼杵郡伊福形村 田三畝十二歩 持主XXXX
地価13円96銭、この百分の2.5 金34銭9厘 地租

明治15年、鹿児島県主事郡長心得原田實 

とある。はじめこれを見たときには伊福形、すなわち延岡市伊形がなぜ鹿児島県なんだ?と気になったものだ。宮崎県北部が美々津県だったことは知られているが鹿児島県でもあったとは。

実は明治維新の廃藩置県では日向国北部の所属はめまぐるしく変わった。以下ウィキペディアによれば、
1871年、廃藩置県により延岡県設置
1871年、日向国北部が美々津県に再編
1873年、宮崎県(初代)設置で編入
1876年、宮崎県の鹿児島県編入で鹿児島県に
1883年、日向国内の分県運動により鹿児島県から独立、宮崎県(現行)誕生。明治16年

ということで、上の地券は明治15年発行なので日向国が鹿児島県に編入されていた期間のものなのであった。
ちなみに鹿児島県から独立するときに日向国の一部であった志布志近辺は鹿児島県に残った。ウムム残念。あれはもともとはウチのものだったのに強欲な鹿児島に取られたとは。

下:古地図では志布志(下端)は日向国である。(クリック拡大)

下:たった2年しか存在しなかった美々津県の庁舎

:美々津県の県庁跡碑。現在は日向市美々津の国道10号線脇、公民館や墓地となっている。



下:墓地内のこんな標柱が。県北に西南戦争の影はいたるところに見られる。警視局警部補・細谷卓良は滋賀県若狭国遠敷郡西津村の出身らしい。これも奇妙だ。現在の滋賀県は近江国の領域そのままで、若狭国は現在福井県である。ところが西南戦争ころの短期間だけ若狭が滋賀県に編入されていた時期があったのである。今、滋賀県は海なし県だが当時は日本海に面していた。


なぜだか墓石は新しいが、なくなっている。

下:ここの墓地はどういうわけか墓石が粗末に扱われ新しい物も含め、積んだまま放置されているものが目立つ。大金をかけて立派な墓石を購ってもあっという間に無縁墓となる。ムダな見栄を張ってもつかの間のこと。ゼニは有効に使ったほうがいい。向こうに美々津の町並み保存地区が見える。








塩見城跡

日向市塩見の水月寺そばに小高い丘があり公園になっている。
頂上には塩見城跡の標柱が立っているがそこらを見回しても城と思しき遺構は見当たらない。小さな砦くらいの物だったのか。城についての説明や案内もない。
下:桜の木は若木が多いが花見にはちょうどいい。


下:日向市街地が見渡せる。来ていた老人たちが津波のときにはここに避難しよう、と話し合っていた。
右手の高台に日向高校。中央のこんもりした森は小さな丘で熊野神社になっている。もとは古墳かな、とかねがね気になっていたが実はこれも砦の跡だそうだ。


下:すぐ下を開通したばかりの東九州道が通っている。

下:集められた石塔や墓石が昔のよすが

下:耳川の合戦の戦死者慰霊碑が立っている。(クリック拡大)
天正六年(1578年)大友氏と島津氏の耳川での合戦である。その時の戦死者を430年後に慰霊するというのだからえらく気の長い話である。関が原の合戦より昔でちょうど織田信長の桶狭間の合戦の頃。
この細川氏は肥後の細川氏なのかどこの細川氏なのかは知らない。グーグルで検索したら東京の不動産業の「興大」の社長さんしか出てこないのでその方かな?

下:耳川合戦図



より大きな地図で 塩見城跡 を表示

下:最近芸能界にも城マニアが多い。




国東鉄道回顧

国東の観光チラシを見ていたら、楽しげなものが目に留まった。鉄ちゃんなら見逃すことのないチラシ。パースが狂っているが奈多海岸あたりのイメージか。
昔国東半島を半周していた国東鉄道(大分交通国東線)を回顧する催しの案内である。
昔の鉄道地図を見ると杵築から国東まで私鉄が伸びている。ご他聞にもれずモータリセージョンに伴い廃線となったものだ。(1964年・昭和39年)その車窓風景はどんなにか美しくのどかだったことだろう。幼いころに日豊線の車窓から別大国道の電車をよく見かけたものだが、国東線は乗ったことも見たこともない。
この行事にも参加してみたいがいかんせん車で3時間はやや遠すぎるか。興味あるかたは問いあわててみてはいかが?
下:詳細はチラシをクリックで拡大


地図を見るとJR杵築駅から杵築の中心市街地までは5kmほどある。杵築駅周辺には全く市街はなく田畑や山となっている。昔車のなかったころは国東鉄道に乗り換えて杵築市街地に行ったのだろう。日豊線はただでさえ杵築近辺で大回りをしているのでさらに杵築中心部まで駅を近づけることはできなかったのだろう。豊後高田も最寄の宇佐駅から5km弱はなれていて、かつては大分交通宇佐参宮線が結んでいた。徒歩が主な交通手段だったころにはいかに昔の人が健脚とはいえ5kmは遠い。下の地図を見ると久大線が由布院に寄るためにとんでもなく大回りしているのとは対照的である。
下:新潮社「日本鉄道旅行地図帳」より。(クリック拡大)

この近辺には昔はいくつもの小さな私鉄(最終的には大分交通)があった。中でも国東鉄道は最も風光明媚な中を走っていた。保存鉄道として残しておいてくれたらどんなに良かっただろう。それも鉄道ファン共通のはかない夢。

コチラに杵築や大分交通国東線の貴重な古い写真が多数ある。写真が小さいのが残念であるが、古い写真を見れば見るほどに昭和30年代の杵築に浸りたいと切望するのである。

浄専寺から飯干峠へ

浄専寺からの帰りにまた国道218号は退屈なので国道503号で諸塚経由にした。五ヶ瀬と諸塚の町境は飯干峠である。昔からよく聞く名前であるが通るのは初めて。浄専寺からしばらく行きいくつか集落を抜ける。
下:ツツジの咲き乱れるかわいい祠を見かけた。

五ヶ瀬町
五ヶ瀬町 posted by (C)オトジマ
下:その遠景。山間に鯉のぼりも泳ぐ。


集落がなくなると峠が遠方に見えてきて、ナビの示す進路はうんざりするくらい曲がりくねる。対向車はまったくない。杉の造林地の多い七曲を登っていくといつしか峠に到着。
広場になっている。標高1034mというからかなりの高山だ。冬の雪がすごいだろう。景色はさして見晴らしがきかずなんてことはない。諸塚村側にやや下ったところに六峰街道への入り口がある。

下:諸塚村という標識、「国道503号飯干トンネル早期実現」の看板、右には開通記念の石碑。(クリック拡大)


下左:黒木博の筆になる開通記念碑。昭和42年だから私が中学生当時。建設当時は県道だったようだ。「飯干トンネル早期実現!」という看板も設置してあるが、いったい誰が通るんだ?その日この国道を通り抜けて見かけた数台の車はどれも地元の車ではなくブラブラとドライブする中高年ばかり。だれも急ぎはしない車ばかり。トンネルがあれば便利に決まっているが費用対効果はきわめて疑問である。受益者はきわめて少数だろう。土建業は別として。
下右:西郷隆盛退軍路の碑。宮崎県北部にはあちこちに西南戦争関連古戦場があるが、こんな峻険を通ったとは。


下:1000mの高地なので赤松が多い。黒松は寒くて育たないとか。

下:石灰岩の露頭が各所に見られる。昔は海底だった名残。

三ヶ所神社

浄専寺と三ヶ所神社は同じところにある。三ヶ所神社はもともと二上山にあったものを移設したらしいので必ずしも神仏習合によるものではないかもしれない。
神社にもしだれ桜の大木がある。シャクナゲが名物らしいがまだ花は咲いてない。
拝殿の前にはテントが張られ各種の苗木が販売されていた。浄専寺の流れでお参りする人も多い。ここの寺社は神仏のご利益よりもしだれ桜によるご利益を地元民にもたらしているようだ。もっとも私はお賽銭以外に1円もお金を消費しなかったので申し訳ないが。

下:境内の外にも土産物のテント村。


下:三ヶ所神社
三ヶ所神社
三ヶ所神社 posted by (C)オトジマ

下:本殿は大変凝った造りで多数の彫刻も見られる。こんな山間の田舎にこんなものを作る財力があったとは。


下:境内には各種の花木が多く、大変ありがたいんだけれども、日本の名所旧跡の例にもれず景観を台無しにするありとあらゆる看板や注意書きが多くて興ざめ。


さらに詳しい情報はコチラ

浄専寺のしだれ桜

毎年今頃のテレビニュースに登場するのが五ヶ瀬の浄専寺のしだれ桜である。開花情報を見ると今週末までが見ごろ、とある。例年より遅い。
さぞ人でごった返しているだろう、と思いつつもどうせタダなら一度くらい、と思い返し行ってみることにした。

結論的には土曜の午後だけにたしかに人出が多かったが、車の置き場に困る、というまではなかった。10日の日曜は駐車場さがしに困るだろうな。たしかにすばらしいしだれ桜群ではあった。この寺に限らず、この地域にはいたるところにしだれ桜が満開であった。寺から次々と接木などで株が分けられて拡がったのだろう。

下:あの三重の塔はコンクリート製である。残念!

下:お決まりの一枚。300年の古木なので枯れた枝もある。

人出が多いのは自分もその一人であるから文句は言えないが、文句を言いたいのは本堂前でオカリナ演奏をする中高年の一団。何もこんな所で発表会をしなくとも。深山の古寺で静かに花を見たい、という人も多かろうに強制的に音楽を聴かされるのはありがた迷惑もはなはだしい。境内に入る前から聞こえてきたので昔懐かしい傷痍軍人の団体の物乞いかと思ったくらいだ。

津波の写真

大津波から早くも一ヶ月がたった。
いまだに当ブログで
下:大洗港。引き波が巨大な渦を作る(クリック拡大で見るとすごい)

下:同じ場所で取られた3枚で波の高さがわかる。南相馬あたりか。


下:川を遡る津波

下:沖合いから次々と津波が


下:朝鮮日報は津波によるガレキの山が島となって太平洋を東に向かって漂う写真を載せている。来年あたりにはアメリカ西海岸にたどり着くとか。このガレキの中には家や車だけでなく無数の死体も含まれる、とある。(クリック拡大)



三浦梅園旧居

今回の国東半島の桜を求めてのドライブでは結局桜はいまひとつではあった。1週間早すぎたようだ。
なにも他所に出かけず地元にいたほうがよっぽど桜三昧ができたかも。

ということで日程の最後はここ。

歳大明神宮と糸永の八坂神社の間に三浦梅園旧居がある。
三浦梅園の名前は歴史の教科書かなんかで聞いたことはあるが、どんな学問をした人物かは知らなかった。

下:資料館のパンフレットより。 天球儀も自作した。著作多数。(クリック拡大)


江戸時代の学問というと漢学、蘭学、国学、本草学、暦学、数学、農学などか。三浦梅園はこれらを総合した「哲学」ともいうべきか。天地万物の条理を極めようとした。もとが医者であるから医学はお手ものであるし、江戸時代の知識人の常として広い漢学の知識はあるし、さらに蘭学から天文学などの自然科学を学んだ。その結果、西洋の学問が自然を正確に観察、描写をするには長けているがその裏を貫く条理を説明できてない、と喝破しその探求に一生を費やすことになる。

下:パンフレットより。彼の宇宙観が覗える(クリックで拡大)

下:著書「贅語」  天体の運動の図解。ガリレオやケプラーより100年以上後であるが地動説はまだ理解されていなかった。


梅園の時代、ニュートンがすでに万有引力を解明していたが、ニュートンでさえ引力が生じる原因や万物の運動の起源を知らず「神の一撃」に頼らざるをえなかった。ましてや宇宙の起源や構造は知られていなかった頃。それは20世紀のアインシュタインやフリードマンの登場を待たねばならない。現代ですら宇宙物理学と量子力学を統合する大統一理論は完成していない。

上の説明を読むと、梅園は時空連続体をイメージしているようだ。頭の中だけでひねり出した理論にしては大変先進的である。鎖国の時代、辺境の山間部からあまり外界に出ることもない、という制約の中で迷信や古典の権威に囚われることなく合理的思弁を追求したのは素晴らしい。

が、説明を聞いてもよくわからん、というのが実際。本を読んだらいよいよ訳がわからなくなりそう。古代中国の陰陽五行説を聞いているような感もある。やはり時代の制約だろう。

梅園の思想はいかんせん現代の一般人にはおいそれと理解しがたいし、興味を呼ぶとも思えないが、なぜか国東の重要な観光スポットとなっている。ほとんどの観光客はなんとなく来て、5分で去っていきそうな所である。私は全く人の気配のない梅園旧居及び資料館に30分の長きに滞在した優良な観光客であった。

下:藁葺き屋根の旧居が再現されているが、壁の漆喰がピンクというのが全く理解できない。ラブホテルじゃないんだから。

下:屋敷の裏には広い敷地に梅園が広がる。かつての塾の跡。


梅園旧居から山の上に1kmほど上がると「梅園の里」という広くて立派なレジャー施設がある。日曜というのにほとんど人の気配がなかった。大丈夫かい?そもそもキャンプ場や遊具施設、レストランに温泉など、梅園先生の学問とはなんの関連もなさそうだ。
下:梅園の里からふもとの梅園旧居方面を見下ろす。桜はまだ若木で花はこれから。

安岐町糸永の八坂神社

歳大明神宮からさらに5kmくらい下ると糸永という集落に八坂神社がある。谷筋の東側山すそにあって歳大明神宮と同じようなロケーションである。


ここには朱塗りの楼門があって中にはボロボロになった門衛(櫛磐間門命・豊磐間門命と思われるが説明はない)と風化してしまった古い狛犬が置いてある。金網があって薄暗く写真は大変撮りにくいので狛犬の写真はない。


下:仁王は入り口ではなく楼門の脇の斜面に置かれている。
これまた飛び切りに稚拙な仁王である。仁王であるという予備知識なしに見たら、何の像やらわからないかもしれない。かなり風化しているから相当古そうだ。しかしこんな仁王こそが始原的な荒ぶる魂を持っていそうでいかにも国東らしい。ヘタクソな石工に大感謝。




下:ここも左右に伸びる広い拝殿を持つ。

下:灯篭は土台の四方に狛犬を持つ。年銘は享和3年(1803年)だから約210年前。和の字のヘンとツクリが左右逆になっているのが面白い。そんな異字体があるのだろうか。

歳大明神宮の仁王


より大きな地図で 歳大明神宮と糸永神社 を表示

国東半島の中央の両子山から四方八方に谷筋が伸びる。
今回は県道55号線を南に下る。前回は405号を下ったが景色はほぼ同じ。狭い谷の両側になだらかな丘が伸びる。
両子寺からしばらく下りると歳大明神宮がある。
両所権現(神社)ともいうらしい。うっそうと社叢がしげり堂々たる大社の風格がある。ここいらの神社は拝殿が両翼に細長く伸びる神楽殿のようになっているのでいよいよ大きく見える。



下:拝殿内部。中央のゴザの上で右手にある本殿を拝む。土足で上がっていいのかどうかいつも悩むところだ。


ここの仁王は少し変わっている。上半身が大きく下半身が小さいのでバランスが悪い。だからこそ面白いとも言える。目には銅板がはめこまれていて、口の中は赤い。これがオリジナルの仕様なのかどうかは知らないが。しめ縄をたすき掛けしているのも特色らしい。浮嶋社の


下:一昔前のマンガの登場人物みたいな顔



下:社叢越しに谷の田畑、反対側のなだらかな尾根筋が見える。



国東の桜と仁王 岩戸寺

大聖寺や長慶寺のすぐ川上、来浦川筋の谷のどんづまりに岩戸寺がある。県道から300mほど脇に入る。
この寺は国東半島の寺々のなかでもわりとメジャーな寺にあたるようだ。歴史も古く寺域も広い。桜の木は多く花もそこそこだが、残念ながら本堂前でなにやら工事中。観光客はほとんどいなかった。
●石立山岩戸寺 天台宗 国東六郷満山霊場第二十六番

どこの解説を見てもここの仁王は石造丸彫りとしては日本一古い、とある。文明10年(1478年)というから室町時代応仁の乱の後でとても古い。道理で風化が激しいわけだ。予習していってないものだからそのありがたみを後になって気づく次第。

下:540年間もここに立っているというのはすごい。

下:後姿はなにやらよくわからない石の塊。あの棒は別につっかえ棒ではない。

下:境内には古い石仏がたくさん。弘法大師のようだが・・・

下:この風化具合からするとそうとうに古い。



より大きな地図で 岩戸寺 長慶寺 を表示

両子寺と長慶寺はまだツボミ

両子寺は春には桜、秋には紅葉の名所であるが。
4月3日の時点では桜はまったくのつぼみ。
4月10日の日曜でも満開までは行かないのではないだろうか。駐車場まで乗り入れたところで寺にも上がらず引き返した。観光客も桜の開花情報を事前に知っているのか、広い駐車場もがら空きだった。

全般に国東の桜は4月9/10日の週末あたりが見ごろか。
山の上ならその翌週まで大丈夫かもしれない。
今年の冬が寒かったせいかどこも遅いようである。

下:両子寺の駐車場近辺はたくさんの桜の大木が並んでいるが全く花はなし。標高が高いからだろうか。


長慶寺は大聖寺から少し谷をさかのぼったところにある。岩戸寺登り口から500mくらい県道を下り、県道の対岸の山の中腹にある。ここにも仁王がある。
●久保山長慶寺 天台宗 国東六郷満山霊場第27番

下:長慶寺の駐車場横には桜の巨木があるが全く咲いてなかった。咲いたら見事だろう。(手前の枝)


下:境内の中も花の気配なし。


下:小ぶりな仁王である。古そうだ。ツタがからみつき自然に還ろうとしている。




下:境内に大師堂がある。

大師というからには弘法大師なんだろうか。しかしこの寺は天台宗だから宗祖は空海ではなく最澄(伝教大師)のはず。
よく見もせず写真だけ撮ってきたのであった。

国東の桜と仁王 石塔群

大聖寺のほぼ両隣にも寺があってこの狭い谷は寺の密集地域である。いくつもの寺を支えることのできる檀家がこのせせこましい農村のどこにいるのか知らんけれども。
金剛寺は新しそうな寺である。入り口の横に豆腐工場があってできたての豆腐の匂いが漂っている。

下:金剛寺参道には規格品の灯篭と石仏がズラーリと並びお出迎え。

下:ここの仁王はえらく新しくてありがたみがないので仔細に観察する気もおきなかった。あと100年もしたらありがたくなるのかもしれないが。


県道をへだてて、この寺の向いの畑の中に石塔群がある。
数本の巨木を取り囲んで無数の石塔が矩形に並べられている。奇異な光景である。このタイプの石塔は形も画一的で石仏も字も刻んでない。だから鑑賞するツボがないのでとっつきにくい。室町期の物だから600年から700年ほど前のもの。江戸期はともかく室町初期の人の心となると現代人には推し量りがたい。早い話が墓石らしい。あちこちに散在していたものがここの集められたとか。





下:木の葉が出て鬱蒼たる樹林になったころがいい景色だろう。



より大きな地図で 石塔群 を表示

国東の桜と仁王 大聖寺

安養寺からオレンジロードでひとつ北側の尾根を越したところに大聖寺がある。そこは遠目にも山の斜面が桜色に染まる。県道544号から寺の駐車場まで入る道も駐車場も舗装されておらずあまり観光客も来ない風だ。この花見日和の日曜に人影も全くない。参道の両側には荒れ果てた廃屋。うーん、鄙びすぎ。
「仁王がある」ということ以外なんの予備知識も持たず来たのであるが、ここは大正解。花盛りの寺は桃源郷ともいうべき。
●国東半島三十三箇寺めぐり28番 天台宗 治地山大聖寺 

下:階段の途中に仁王が待つ

下:寛政3年(1791年)だから220年前。奉納主の名に猪俣氏の名がある。県道沿いに立つ真新しい巨大な案内石碑も猪俣氏の長寿記念の奉納であった。同じ血統かどうかはわからない。いずれにせよ猪俣氏は古くからこの地域の有力氏族のようだ。境内脇には猪俣家の新しい巨大な墓があった。

下:ふもとの谷筋を見下ろす仁王


下:山門が見えてきた。山門は二階が鐘楼になっている。けっこう長い参道だ。実は裏に車道があり、車で上がれるのだが、この参道を通ってこその参詣である。

下:桜、モクレン、モモ、菜の花などが花盛り。(クリック拡大)

下:本堂は新しい


花盛りの境内でお弁当を食べ野鳥の声も楽しんだ。だれも他に花見客が来ないのがいぶかられた。なにも観光ルートに載った名刹や石仏に行くばかりが国東ではない。今年の桜を最も印象づけた場所であった。満足満足。

国東の桜と仁王 安養寺

宮崎県北部では桜はほぼ満開。弁当を持って勇んで花見へ。桜を見るためだけならどこに出かける必要はないが、桜の背景が重要であるのでできれば趣きのあるところがいい。ということで国東へ。あいにくの曇天だがしかたがない。高速を利用して3時間で国東市に着く。途中降り出した雨も着いたころにはやんだ。
今日は仁王のある寺社めぐりということでまず安養寺へ。

下:安養寺は山里の小さな無住の寺。なんら看板も標識もないのでうっかりすると見逃す。道路脇にいきなり現れた仁王で気づいた。吽形の笑ったような表情といいバツ印のヘソといい親しみやすい仁王である。(クリック拡大)

下:台座には「祈願国威宣揚、皇軍武運長久」とあるから戦時中に奉納されたものか。とすると70年くらいのものでそう古くはないことになる。


下:無住であるが本堂は近所の人々によりきれいに整えられている。隣の人が「おもしろい絵馬があるよ」と教えてくれた。


下:どうやら「忠臣蔵」のようである。とても横長の絵巻のような絵馬。明治35年の奉納(クリックで拡大


下:これも明治35年。のどかな農作業風景。明治の光景ではなく江戸時代のように見える。男はマゲを結っている。


下:ここが国東市ということだからか、輸送艦「くにさき」。今次の大震災では宮城沖で捜索や被災民への風呂の提供に活躍している
天皇皇后は就任の記念か。どこに売ってたんだろう


下:せまい谷筋にひろがるのどかな里を寺から見下ろす。廃屋が目立つ



より大きな地図で 安養寺 を表示


長全寺の桜

いよいよソメイヨシノも満開を迎えた。
もう家にじっとはしておれないではないか。
延岡の沖田ダムに再度行って見たらこの数日で山桜はすっかり花を終え若葉が萌えていた。沖田ダムにソメイヨシノはほとんどないので花見はもうできない状態。
沖田ダムからすぐ北に降りると下三輪の集落。ここの丘の上に長全寺という寺があり、下から見ても見事な桜だったので上がってみた。

下:桜越しに向こうに東九州道の五ヶ瀬川橋梁が見える。


下:長全寺の屋根が見える。石塔がたくさん。
花見には絶好のポイント。


下:長全寺は中山身語正宗というマイナーな宗派。


近所の延岡植物園に寄ったら宮崎フラワーフェスタが明日3日からということで例年のようにハンギングバスケットが。



御鉾ヶ浦の桜

細島の御鉾ヶ浦に御鉾ヶ浦公園がある。山の斜面にあるので細島湾や日向灘を見下ろせる。津波時の避難場所にもよさそうだが、3月11日にはあまり避難者を見かけなかった。細島の人々はもっと上のほうに避難したようだ。
青い海と桜が同時に楽しめる実に風光明媚な公園だ。

下:山桜が葉桜になりながら咲いていた。背景の小島は「黒田の家臣」


下:御鉾ヶ浦海水浴場の砂浜はとても狭い。水はキレイそうだ。

下:大型船が沖合いに休む。津波のときにはあのあたりに退避した漁船がいっぱいだった。

下:親子連れが水遊び。水ぬるみ子供は当然海に入ってしまう。結果、どうやら身ぐるみ濡らしてしまったようだ。着替えを持ってきていてよかったね。


下:子供が遊んでいるここには昭和40年マリアナ諸島で台風により遭難した漁船乗組員の殉難碑が建っている。細島の漁船だったのだろう。なんと17名が死亡している。18歳の若者も2名、あとも若い人ばかり。まだ漁民が若かったころだ。

プロフィール

トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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