細島小学校校歌

北原白秋は往時のスター詩人だからさぞ大量の校歌の依頼を受けただろうと思っていたが、意外や34曲。まぁ、多いといえば多いのかもしれないが。現在全国に小中学校だけでも3万以上あるのだからどちらかといえば希少といってもいい。
白秋作校歌は小学校だけだと13曲。そのうち白秋ゆかりの郷土関連(柳川・久留米・南関)の小学校が5校ある。そんな中にどうしてだか日向市の細島小学校がある。どういう縁なんだろうか。牧水つながりという人もいるが、それくらいなら牧水が作詞したほうが早い。ネット上では真相はつかめない。

下:細島小校門

下:校歌碑

ネットで調べても歌詞は見当たらない。卒業生の「まるで訳わからずに歌ってた」というような思い出は見られる。そうそう、昔の文語体美文調はややもすると子供には訳がわからんものだ。というところで私が細島小の石碑から写したところによれば、以下のようになる。

細島小学校校歌(昭和8年制定)
作詞 北原白秋  作曲 外山國彦

1.
荒ぶる鳥辺(とべ)の島すぎて
まがつ海の魔 鎮(しず)もらせ
祖宗(みおや)に賜(た)べし 細島の
鉾(ほこ)の守りも 海の幸
2.
あした波間の 魚とり
夕帰るさの 米の山
日々のにぎわい 夕炊(ゆうかし)ぎ
商いしげき 市の幸
3.
鉾とらば 四方(よも)の潮路に
守らめや 学びの庭に
手とり肩くみ 足そろい
眉間(みけん)の誇り 輝かさむ


ウーム。たしかに小学生ならずとも耳で聴くだけではよくわからん歌詞だ。
字面を追えば理解できるんだけれどもね。白秋の童謡は平明な口語で歌いやすいものだが、校歌になると七五調の古めかしい美文調文語になるものか。
ちなみに白秋が柳川の母校に贈った校歌の詞をみると細島小に比べてかなりわかりやすい。文語ではあるが子供にも十分理解できそうだ。

矢留小学校校歌   作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰

1 紫にほふ雲仙の      
  山を南の雲に見て       
  幸あり我等 我が眸      
  空あり 矢留 我が母校    
  空あり 矢留 我が母校    
2 不知火燃ゆる有明の
  海を菜種の果てに見て
  学べよ廣く 明らかに
  磨けよ珠とこの誠
  磨けよ珠とこの誠
3 鮠の子走る我が里の    
  水を柳の堀に見て       
  通へば凛々しすこやかに    
  競へば清し朝に夕       
  競へば清し朝に夕       
4 輝きそよぐ筑紫野の
  風を学びの窓に見て
  栄あり我等 我が希望
  声あり 矢留 我が母校
  声あり 矢留 我が母校

ちなみに細島小校歌作曲者の外山國彦は戦前に活躍した著名な音楽家である。かつてNHK交響楽団の指揮者だった外山雄三氏の父君である。田舎の小さな小学校なのに中央で活躍する著名人に校歌を依頼できたのはかつての細島港の隆盛と関係があるのかもしれない。

細島小学校のまん前に「西南戦争官軍本営跡・摂津屋」がある。古い建築のはずだが現在は外壁はトタン張りになって瓦も新しい。史跡というからにはもう少し古色を保つ工夫が欲しい。
下:摂津屋

下:有栖川征討総督宮殿下御本営跡、摂津屋善兵衛宅。
西南の役で日向国北部が激戦地となったおり、官軍は細島を拠点とした。
そのおり、有栖川熾仁親王がここを本営として指揮をしたとある。



渡辺修三

延岡高校の校門周辺には昔から牧水の歌碑があった。「薄紅に」の歌碑である。
最近はこの石碑群に後藤勇吉、延岡高女校歌、そして渡辺修三が加わっている。そうそう「剛健、自活、信愛」という「校訓」もあったな。
後藤勇吉と女学校校歌は紹介済みだから今回は残りの渡辺修三を。

下:牧水歌碑。「うす紅に葉はいち早く萌えいでて 咲かむとすなり山ざくら花」


下:渡辺修三の詩碑。
「一本の樹のように わたしは胸をはって まっすぐに立っていたい」


コメント欄にあるように持田昌次様より、これは「樹木」という詩の一節だとご指摘がありました。下のコメント欄よりその詩を転載する。

樹木

私は一本の樹のようになりたい
あおい水は体内を登り
雲が枝や葉の上を流れる
眼をつぶっているが何もかにも知っている
山の頂上に平らなあおい野原があり
楢(なら)や橡(くぬぎ)が茂っている
昼間も月夜のように
草やりんどうの花がしっとりと濡れている
雷雨が去り稲妻が山の頂上に流れる
ヒリヒリする鉄線が無限の空に明滅している
谷間に住み山の仕事を営み雷雨の去ったあおい草原の
私は一本の樹のようになりたい
私は一本の樹のように胸を張って
まっすぐに立っていたい

渡辺修三(1903-1978)についてはこのリンク先に簡単な解説がある。
戦前から戦後にかけて活躍した詩人である。中央詩壇に短期間しかおらず延岡在住だったし、また一般になじみにくい現代詩というわけで全国区の知名度はあまりない。ウィキペディアにも記載がない。誰か詳しい人がアップして欲しいところである。ネットで調べても彼の作品や書籍は見当たらない。唯一渡辺修三著作集全5巻が鉱脈社から出ているがどうやら絶版在庫切みたいだ。図書館蔵書にあると思うので興味ある方は図書館にどうぞ。

詩というのは一部を取り出すより、詩集の中の流れで読まないと空気がつかめないものだが、やむなく25歳の時の処女詩集「エスタの町」から表題作を下に紹介する。
正直言って、私にもよくわからん、という詩であるが。

エスタの町

  ?
月夜海の方へエスタの町を歩いてゐると
レモンのにほいがして女が通って行った・・
  ?
「三銃士」と云ふ酒場には
メキシコ生まれの黒ン坊がいる
このダルタグナンは
白い歯をムキ出して定食をはこんで来る
  ?
クチビルを紅く塗ったをんなよ!
月あかりにトマト・サラダを食べてゐる女よ!
ラ・ラン--ラ・ラン--
あゝ ちょいと女よ!
  ?
ガラスの窓のたくさんあるエスタの町では
金魚の繁殖率がステキに大きいと云ふ話だよ!
  ?
郵便局長はチョッキを持たない
デモ まい晩お月さまは
あの屋根のうえにひっかゝる!

もう一遍は「花祭リ」。これはずっと後年のもの。「息子の死に際して」とサブタイトルがある。これは大変よくわかる。渡辺は1945年終戦まぎわに42歳で召集されているが復員直後に10歳の長男を疫痢で亡くしている。  

花祭リ

山ニムカヒ
子ノ名ヲ呼バフ
山暗ク
子ハ帰ラズ
雨モ降レ
涙モカカレ
行キテマタ帰リ来ヌ
浄心童子
泣キヌレテ座リイルヤ
花祭リ
サンザ降ル雨


素人の私が縷々述べるよりも、ある読書家の方が渡辺について評論をしておられるので参照していただくとはるかに有益な情報が得られる。渡辺の他の詩の掲載もある。コチラのブログ

われわれ延岡高校出身者には校歌の作詞者としてなじみがある。
校歌であるから平明な歌詞である。
曲もなじみやすく好きな校歌であった。

延岡高等学校校歌

作詞 渡辺修三/作曲 近衛秀麿
うるわし延岡 輝く母校
明けゆく空の 光さやけく
ただよう雲よ 川の流れよ
緑の愛宕を  仰ぎ見るとき
希望の風は  胸にあふるる

うるわし延岡 輝く母校
伝統の丘   歴史は古く
校庭の杜に  何をか想う
教養の花の  きそい咲く日を
学びて進む  道はひとすじ

うるわし延岡 輝く母校
ああ栄光の  あまねきところ
我が学び舎の 並びて建てり
若き命の   強く正しく
手をとりて行かん 手をとりて行かん


作曲者の近衛秀麿は山田耕筰の弟子にして日本音楽界の大御所である。さらに、あの終戦時の首相近衛文麿の義弟にして貴族院議員、子爵という大変畏れ多い方である。
女学校校歌の作曲が山田耕筰でその後身の延岡高校校歌の作曲が近衛秀麿とは田舎の学校にしてはなんと贅沢な布陣なんだろう。ウィキによれば近衛の主な作品12曲の中の一曲がこの校歌であるから大変ありがたい曲なのである。今回調べるまで知らなかったなぁ。






博多阪急

田舎に暮らしていると百貨店に全く縁がない。そもそも県内に百貨店と呼ぶに足りる店があるんだろうか。山形屋とボンベルタ橘に20年くらい前に行ったことがあるがなにかウラ寂れた印象しか感じなかった。最近行ってないのでもしかすると華やかな店に変わっているのかもしれないが、まぁ、そんな訳ないか。若い人であふれるイオンモールの祝祭的空間に対抗するのは大変だ。

実は大都市の大百貨店に行っても田舎の貧乏なオジサンには退屈なところなのである。昔の百貨店はまさに百貨がそろっていて、老若男女の欲しい物がなんでも揃っていたのであるが昨今ではほとんどブランド店の集合ビルと化しているので何も買うものがないのである。自由業のビンボーオジサンはスーツもネクタイも靴も装飾品も何もいらない。ユニクロのTシャツやフリースを買えばうっかりすると10年も着たきりスズメである。世間の流行にも全く縁がない。

下:高島屋日本橋店

学生時代に東京の日本橋にある会社でアルバイトをしていた。小さな会社で昼には100円くらいずつ出し合って会社の小さな台所でおかずを作っていた。周囲はオフィスビルばかりで店というものが全くない。唯一あったのが高島屋日本橋店である。あの皇室御用達の高級老舗である。私は会社の一番下っ端だから毎日昼には高島屋地下食品売り場に買出しに行った。大根一本、モヤシ一袋買っても例のバラの模様の包装紙に厳重に包装してくれるのに恐縮したものだ。当時は物価の感覚があまりなかったから知らなかったがきっと毎日高い買い物をしていたに違いない。私が最も百貨店を愛用したのはその時期だけ。ただし、一階以上の階には全く用事も興味もなかった。

下:梅田阪急百貨店コンコース

兄が関西の阪急沿線にいるので学生時代よく梅田に行った。大昔からのマルーン色を頑固に墨守する阪急電車、頭端式ホームが九番線まである大規模な阪急梅田駅や、阪急百貨店に通じるコンコースなど阪急の醸すレトロで上品な雰囲気が大好きだった。現在阪急ビルは建替え中であるが、あのレトロ感のままで復活して欲しいものだ。というわけで買い物はしないが昔から阪急ファンである。

下:博多阪急

今年、大学を卒業する娘の就職先が博多駅ビルに新規出店した博多阪急内になる、というのでまだ卒業式前の三月に見に行った。
九州新幹線の開通は大震災の大騒ぎでひっそりとしたものになってしまったが、新駅ビルは見物客で大賑わいだった。博多阪急の発表では今月25日には予定より2ヶ月早く入店者数が1000万人を突破し、年間目標2000万人もラクに達成できそうだとか。まことに結構なことである。

下:ファサードのデザインがいかにも阪急風で梅田を思い出す。


店内はやはりオジサンには全く無縁の社会であった。というか田舎に暮らす低所得層には女性にだってあまり縁がなさそうな。田舎者にはシマムラかカヤシマか西松屋で十分に贅沢である。
下:阪急店内。ファッション関係しかない。人出もさしたることはない。

下:地階食品売り場は大混雑。食い物なら老若男女の関心を引く。隣の東急ハンズは上から下まで超混雑であった。ハンズの方が絶対楽しいに決まっている。


4月になって娘が会社に入ったら、配属先は予定の博多阪急でななく急遽別の百貨店になった。だからこの時の下見はあまり関係なかったことになったが、こんな機会でもないと百貨店に行くこともないのでいい機会だった。田舎に暮らしているとあんなに大勢の人間をいっぺんに見るという機会もめったにない。

津波避難訓練

22日は県の防災の日とかで門川町でも津波の避難訓練があった。東日本大震災のすごい津波を見た後だけに避難が必要な大津波が非現実的だとは思えない。

訓練は予告どおり10時にけたたましくサイレンが鳴る。普段きかない音だけに緊迫感がある。防災無線が避難を呼びかける。しかし避難方法、避難先はあえて指定しない。これも事前に通告されていた。
東北の大震災では「とにかくもよりの高台避難」をした人々が助かっている。臨機応変の対応が必要だった。マニュアルどおりでは必ずしもうまくいかない事例が多かったのでこの訓練でも個人の判断にまかせる、という町の方針のようである。
下に示した門川町の津波ハザードマップでは門川中学校が避難場所になっているが、大震災クラスの津波では標高4m程度の門中ではひとたまりもない。さらにこの日は門中は教室が開放されていなかったという。せっかく各戸に配布した立派なハザードマップも訂正を余儀なくされそうである。

下:訓練参加の人々がのんびりと高台を目指す。年寄りは階段が大変だ。

下:ふもとの住民のごく一部しか参加してないようだ。若い世代はほとんど不参加。


昔土々呂に住んでいたころ、三陸のようなノコギリの歯のような湾入では津波は湾奥にいくほど高くなるが、土々呂のような巾着型の湾はそう危なくない、と聞いたことがあり長年真に受けてきた。しかし今次の津波の映像を見ると津波というのはそんなに生易しいものではなく、海水面が急に高くなりそれがしばらくの間継続する、という現象である。だから波ではなく海水の流入が本質的なのでノコギリ型だろうが巾着型だろうがさらには仙台以南の海岸のように湾入のない平坦な海岸だろうがおかまいなしに危ないのである。

下:気仙沼のこの映像が最もよくその様子を伝える。海水面はどんどん高くなり情け容赦がない。ところで津波映像を見るたび疑問なのは防災無線はなぜあんなにゆっくり話すのか?あれでは切迫感がまるでないではないか。それに「警報が出てます」ではないだろ、今まさに大津波がきちゃってるよ!


10mを越すという大震災の津波は貞観津波以来のいわば1000年に一度、という稀有な大津波であった。あんな大津波がたびたびあるとは思えないが、遠からず予想される東南海地震の津波では日向灘沿岸にも斑目氏式に言えば、4m、5mくらいの津波が来る可能性はゼロではない。門川町のホームページから津波ハザードマップがダウンロードできる。2008年版なので今回の津波の知識は織り込まれていない。
これを国土地理院の25000分の一地図と照合してみると、どうやら5m以内の津波を想定しているようだ。4mくらいかもしれない。

下:門川津波ハザードマップ。詳しくはリンク先からダウンロードして下さい。


下:国土地理院地図で標高5m以下を塗つぶしてみた。もしこれを10mにするなら門川は山を残してほとんど壊滅。地図が大変古いのがご愛嬌。なんと昭和55年発行。測量はその10年前くらいだろう。海浜公園や五十鈴小がまだない。(クリックで拡大)

赤水・金磯の廃鉱山

子供のころ、といっても中高生のころ。母はいつも体調不良でいろいろ健康法を試していた。そのなかで鉱泉の水を飲む、というものがあった。40年ほど前のことである。現在でも大分の白水鉱泉や六ヶ迫鉱泉の水を汲みにわざわざ出かける人もいる。

私が行かされたのは赤水の白浜である。赤水の集落のどんづまりあたりから山道を分け入り、一山越えると北側の海岸に小さな砂浜がある。当時はそこに廃鉱山があり建物も残っていた。「赤水鉱山」である。
そこの湧き水を一升瓶に詰めて持って帰るのである。全く人気のないところであるが当時の子供は山遊びでそのくらい慣れていたから別にこわくもなかった。その水は金気が強く、飲むのにちょっと勇気のいるようなものであった。母の体調にプラスだったのか疑問であった。
母は臼杵の六ヶ迫鉱泉にもたびたび出かけた。六ヶ迫の水は炭酸を含んでいてこれまた飲みづらい代物である。でも赤水のよりはマシであった。

下:下の円の場所に赤水鉱山があった。現在ではもう道がないのではないか。

宮崎県調べによるこの鉱山の概要は----
●延岡市赤水。遠見山半島北斜面。昭和45年廃山。
●黄鉄鉱・磁硫鉄鉱・黄銅鉱・閃亜鉛鉱・石英など。金、銀を含む
●四万十累層群の砂岩・頁岩中を走る4条の鉱脈があり、厚さ0.5~1.5m最長の鉱脈は延長1,000mに達する。

川水流・上崎の廃線レール

国道218号線沿いで高千穂線の鉄道敷きがあちこちで蚕食されレールが撤去されつつあるのを見るにつけ、かえすがえすも残念なことだ、思う。あれだけまとまった細長い敷地というものは狭い日本ではなかなか得られないのであるから、後世のために残しておいて欲しい。そのうち鉄道を復旧しようという機運が来ないともかぎらない。イギリスでは各地に多くの保存鉄道が残されて、世界中から鉄道ファンが訪れる観光資源になっている。私に孫正義なみの財力があれば、私財を投じてナローゲージで復活するのだが。まぁ、鉄道ファンのかなわぬ夢。

下:3年前の岡本駅。まだ駅の形をとどめていた。

下:今年の三月。すっかり路床もなくなり堤防かさ上げ工事現場になってしまっていた。鉄道の面影はまったくない。

下:かつて鉄道があったことを示す国土地理院地図。これはネット上の地理院のサービスからスクリーンショットで写したもの。このバージョンも7月で消えてしまう。新しい基本図にはすでに高千穂線は書かれてない。これは川水流近辺。(クリック拡大)

この五ヶ瀬川南岸から北岸に渡る川水流鉄橋が2005年の台風14号で流されたのが高千穂鉄道の命脈を絶ったのである。

下:台風14号で水没した川水流の町。(クリック拡大)


下左:川水流橋から延岡方面を見る。この少し先で左に曲がり、鉄橋につながっていた。
下右:高千穂方


川水流から一駅西が上崎駅である。
下左:上崎橋から延岡方を望む。
下右:高千穂方。一番奥にかすかに小さなホームが見える。


下:上崎駅にはホームや駅名板、待合室が残っている。しかし風前の灯。レールは農道の邪魔なのか一部チョン切られている。これを切るのは大変だ。あまりの重さに鉄くずドロボーもさすがに持っていくのをためらうだろう。向こうにみえるのが上崎橋。ぜいたくな橋である。

下:ホームの上の小さな待合小屋にはまだ時刻表が残っている。どこかに保存しておかないと心無いテッチャンに盗られるぞ。


下:上崎橋脇にこの橋建設の記念碑がある。受益者24戸に対し約30億円が投じられている。一戸当たり1億2500万円。高千穂鉄道復旧が検討され費用を試算したところ26億円だったという。将来的な経済合理性から復旧は断念された。しかしこの橋と比べどちらが受益者が多いんだろう?おそらく金の出どころの問題だろう。「林業」という名目が立てば農水省が喜んで金を出すシステムがある。「経済合理性」は無視しても予算を消化したい官僚の習性。



里程標

下:細島漁協前。ここに妙国寺観光のための駐車場がある。


細島の妙国寺下あたりにコミュニティセンターがある。かつてはここが町役場だったようだ。
その公民館前に里程元標が立っている。明治39年だから1906年、日露戦争のすぐ後。鉄道はまだ宮崎県に来てない頃だからここにある細島駅というのはもちろん鉄道の駅ではなく、古代律令時代以来の駅の意味である。鉄道のない時代には宮崎県と中央の間の交通はここ細島港からの船便によったもの。

下:小さい方は大正時代の法令によるもので「細島町道路元標」と書いてある。
大きい方は
「距宮崎元標十七里二十六町一間三尺 細島駅」
「美々津駅ヘ三里二十七町四十八間、富高駅ヘ一里一町三十八間二尺」
「明治三十九年十月建設 宮崎県」  (クリック拡大)


尺の単位まで書いてあるけれどあてになるのかは疑問である。一里が約 3.927km、1町が36町、1町が60間、1間が6尺、1尺が30.3cmであるからここから宮崎までは複雑な計算をすると69.598kmとなる。ためしにネットのマップで10号線経由で県庁までの距離を検索すると68.841kmとなる。
ということは、約750mほど短縮されているが、これはルートの取り方のわずかな差異で、誤差の範囲内だろうから実質的にはほとんど短縮されていない。当時耳川に橋はなく渡し舟で渡っていたので美々津近辺の距離も今と変わらない。渡船場の上流側1km地点に橋がかかったのは昭和9年で2kmの遠回りになった。現在の国道10号橋梁は昭和42年でもとに短縮された。

下:まだ現国道10号がなかったころ、昭和30年代の耳川河口付近。手前の橋が昭和9年に架けられた美々津橋。奥は日豊線。現在の橋は日豊線のさらに下流。


下:道路元標のすぐ近所に史跡「高鍋屋」旅館がある。現在は資料館で、かつての細島港の栄華の片鱗を伝える展示が見られる。ココが詳しい。


下:昔の細島港。年代不明。正面の高台の寺が妙国寺のようだ。奥のほうに松並木が見える。


下:昔の細島港。年代不明。入郷から切り出された木材や木炭の集積地。材木の山が見える。


下:美々津には美々津町道路元標がある。細島と同じ形式で大小二本立っている。伝統的町並みの南のはずれの海岸堤防際にある。町の中心でないのが意外。


下:高鍋城には藩界を示す江戸時代の石標があった。珍しいらしい。
左:従是東南高鍋領。美々津にあったもの。右:従是北東高鍋領。佐土原藩との境界。

細島 妙国寺

日向市名所のひとつに細島の妙国寺庭園がある。
ずいぶん久しぶりに行ってみた。
下:参道は住宅地の細い路地の奥。

下:イチョウの大木が石段を挟んで二本立つ。名刹の風格。

下:で、これが妙国寺庭園。名勝という標柱がある。

下:ウーム。さしたることはないような。狭いし、管理もいまひとつ。紅葉のころはもしかするといいのかも。

下:雨が多い時期ならこの岩の間から湧水があると思われる。いずれにせよ過大な期待をせずに見に行ったほうがよい庭園ではある。

下:金ぴかの本堂。建物は古くはない。日蓮宗。

下:狛犬もある。

素晴らしきヒコーキ野郎  ポルコ・ロッソ

下:「素晴らしきヒコーキ野郎」の一場面。夕闇せまる中をアメリカ機が飛ぶ。
下:「紅の豚」の一場面。


ジブリの宮崎監督がヒコーキマニアなのは有名だ。ただし彼の趣味は両大戦間の短い期間のヒコーキ達に限られているとか。ジブリ映画の「紅の豚」は1930年前後のアドリア海を舞台としたヒコーキ野郎たちのお話である。水上機ばかりたくさんのヒコーキが登場する。

下:アニメ版の原作となった「飛行艇時代」より


宮崎氏の軍事やヒコーキの知識はとんでもないものである。まさに軍事オタク。しかしその知識や趣味が彼の作品に露骨に表れることはあまりない。一般には宮崎氏は左派的市民派、あるいはエコロジストと見られることが多いのでその趣味と「トトロ」や「ハイジ」のイメージとのギャップに自身気恥ずかしさがあるようである。
そんな中で「紅の豚」(1992年)は彼の趣味がそのまま劇場作品になったマレな例なのである。しかし内容は一部のマニア向けではなく誰でも楽しめる娯楽作品として大変良くできている。もちろんヒコーキマニアも大満足。

それ以降の氏の作品「もののけ姫」「千と千尋」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」は製作期間も長く長尺となりテーマも重くなりがちで軽快さに欠け、何度も見ようという気にならないが「紅の豚」までの作品は何度見ても面白い。実はこれを映画館で見たときには前作「魔女の宅急便」の超絶的カタルシスに比すれば今ひとつ、とあまり感動しなかった。いっしょに見た妻は大感動してもう一度見よう、と言ったくらいだったが、小さい子連れだったのでやめたのである。ところが後日、ビデオで再見、再再見し、価値がわかった。エンディングの加藤登紀子の「時には昔の話を」は涙なくしては聴けない。今ではジブリの中では私のモストフェイバリッツである。



この歌は別にこの映画のために作られた訳ではないが、素晴らしい効果をあげている。ヒロイン、ジーナの声優を加藤登紀子がやったのでその縁だろう。ジーナは役柄シャンソンがうまくなければならないので加藤にはうってつけである。またこの歌には彼女の人生が込められているのを感得できる。1960,70年代に青春を送った、ある種の人々にはリアルに共感できる詞だ。

ところでジブリは続編を作らないことで有名である。アメリカ映画では一度ヒットしたら次々と続編を作るのが常であるのと対照的に、金儲けのヘタなガンコな会社なのである。たとえば「トトロ」に限らず「耳をすませば」のその後、とかだれもが気になるところなのであるが。

ところが、昨年、雑誌「CUT」に宮崎氏の対談が載って、そのなかで彼が「紅の豚」の続編に言及したのである。「ポルコ・ロッソ最後の出撃」というタイトルからして期待を抱かせる。世界中のジブリファンが色めきたった。「そりゃスゴイや、ビッグニュースだ、楽しみだ」と。
しかし、よく読めばそれはあくまで彼の「夢」であってビッグビジネスとして大所帯を養わなければならないスタジオジブリが実際にそれで動けるか、というのは別の話ということであった。夏休みに家族連れを大量動員するというジブリの興行スタイルからするとどうやら宮崎氏の構想と客層が相容れないのかもしれない。

宮崎氏の構想ではポルコ・ロッソはあのあと1936年のスペイン内戦に参加して活躍するというものである。「紅の豚」の中ではファシズムに嫌悪感を抱いている風なポルコであるから、当然人民戦線の義勇軍ということになろう。そうなると歴史的にどうしてもハッピーエンドにはなりにくい。政治や歴史や戦争が背景となるわけだから女子供(失礼!)の興味を引くとも思えない。
しかし、私からすると絶対に見たくなる企画ではある。宮崎氏も70歳と御歳のことだしヘビースモーカーでもあるし大震災もあったことだし残念ながら実現できない可能性が大きいが、ひそかに期待している。

下:宮崎氏の「雑想ノート」は私の大好きな本であり、何度読み返したかしれない。この中にスペイン内戦を舞台とした一遍「農夫の眼」がある。スペイン内戦は双方を支援した多くの国の各種航空機の見本市のようであった。


下:「飛行艇時代」は「紅の豚」の原作マンガ。
「雑想ノート」は架空の戦記。10話ほど入っていて、それぞれ3~5ページしかないが、濃密な書き込みで読むのにエラク時間がかかる。何度読んでも面白い。ヒコーキ好き、ミリタリー好きにはたまらない。



素晴らしきヒコーキ野郎  石原裕次郎

1927年、リンドバーグが大西洋横断に成功し一躍大スターになった。
リンドバーグの名は誰でも知っているが、パングボーンとハーンドーンの名は誰も知らない。彼らは初めて太平洋無着陸横断をした。太平洋は大西洋よりはるかに広くて困難はより大きいのにである。まぁ、いろんな原因があるだろう。いかに太平洋といえどもリンドバーグの後追いの感は否めない。さらに太平洋は欧米人にとっては地球の裏であって、大西洋こそが桧舞台なんだろう。

下:太平洋横断したミス・ビードル号


1931年、パングボーンとハーンドーンはミス・ビードル号で青森の三沢からアメリカ西海岸のワシントン州ウェナッチまでの無着陸飛行に成功し英雄となった。偏西風の関係でが西から東へ飛んだ方が有利なのである。日本からアメリカに渡るんだから日本人にその栄誉が輝いてもよかったはずだが、そうはならなかった。これには我が後藤勇吉も関係しているのである。

リンドバーグの成功に触発され日本でも民間で太平洋横断飛行計画が立てられ、後藤も操縦士としてメンバーに選ばれた。結局のところ国内のゴタゴタと訓練中の事故などで計画は頓挫。この事故で後藤は死亡、1928年のこと。
その後3年間ボンヤリしている間にアメリカの冒険野郎にしてやられたのである。官や軍の無理解が背景にあるらしい。とかく日本では昔から今に至るまで冒険は官にうとんぜられるのである。かえすがえすも後藤にその栄誉を与えられなかったのは残念である。詳しくはココが面白くその間の事情を伝えている。

下:霞ヶ浦で太平洋横断をめざし訓練中のヒコーキ野郎たち。左端が後藤勇吉。


子供のころ「素晴らしきヒコーキ野郎」(1965年)という映画を見て大感激した。コメディ映画なので感動ものではないのであるが、今のようなCGのない時代だから実物の飛行機で撮影されておりクラシックな飛行機が飛んでいるだけで感動できた。今見てみると実写の部分と合成の部分がすぐに区別がつく稚拙な所が目に付く。原題は「Those Magnificent Men in Their Flying Machines or How I Flew from London to Paris in 25 Hours and 11 Minutes」ととんでもなく長い。これを「素晴らしきヒコーキ野郎」と訳した邦題が素晴らしい。

このヒットを受けてあの当時似たようなタイトルの映画が続出した記憶がある。「華麗なるヒコーキ野郎」というロイヒル&レッドフォードの作品があるけれども原題は「The Great Waldo Pepper」なので原題と全く関係なく、「素晴らしきヒコーキ野郎」のパクリになってしまっている。作品自体は「素晴らしきヒコーキ野郎」より上なのに。これまた1975年当時「華麗なる一族」や「華麗なるギャツビー」など「華麗なる~」が大流行してたことによるんだろうな。

下:長い長いタイトルの前半がやっと出てきたところ。


「素晴らしきヒコーキ野郎」は飛行機草創期のドーバー海峡横断レースをコメディ仕立てにした大作である。新聞社主宰でレースが企画され世界中から腕に覚えの飛行家がロンドンに集結する。これに日本からは石原裕次郎が参戦するのである。映画の序盤は各国代表たちの故国での様子である。それぞれ自作の機体でヒコーキ野郎をしているのであるが、石原(役名は山本)だけはなんとタコに乗っている!
ところがなんと日本には飛行機がないのである。そこでアメリカ機とイタリア機をバラして合体し日本機に偽装するのである。まったく日本人ときたら猿真似のパクリが得意なんだから、というおなじみの設定になっている。まぁ、1960年代までは確かにそうであったわな。史実としても舞台は1910年だからウソでもない。日本人が始めて飛行したのが1910年、徳川好敏大尉のフランス製複葉機アンリ・ファルマンによるものなんだから日本製の飛行機はまだないわけだ。ライト兄弟からわずかに7年後である。

下:タコに乗る石原。ヤッコダコに乗る子供が右に。書割の富士山。日本の場面だけ手抜き。当時のハリウッド映画ではおなじみだが、日本の場面は全てセット撮影で国籍不明な東洋。

下:石原の師匠がアメリカ機とイタリア機を組み合わせて日本機にする案を説明している。


石原はヒコーキに強そうなトラの絵を描いて会場に乗り込む。その颯爽とした姿を見てレース前の会場では「日本絶対優位」との観測が流れる。欧米人からみると日本人は超能力を持っていたりするものだ。しかしアメリカ映画の主役はやはり米英人だから、日本人はただのサシミのツマ。石原の機は悪役に細工され飛び上がったとたんに墜落して石原裕次郎のハリウッドデビューはわずかの出番で終わるのである。

下:日本機に群がる人々。石原は軍人スタイル。

下:颯爽と飛び立つ石原機

下:離陸後あっけなく墜落


とまぁ、私は後藤勇吉を思うとこの映画の石原裕次郎を思い出す。
なおこの映画で最もコケにされているのはドイツ人である。とかく敗戦国の扱いは芳しくない映画であった。しかし依然として私はこの映画が大好きなのである。

下:映画の一部。




素晴らしきヒコーキ野郎  後藤勇吉

延岡高校にはもちろん若山牧水の像はあるが、後藤勇吉の像もある。
牧水は国語の教科書に必ず載る郷土の偉人であるが、勇吉は全国的にはあまり知られてないかもしれない。私も20年前までは全く知らなかったし、延岡市民もほとんど知らなかったのではないか。20年ほど前ごろから勇吉の偉業を再発見する動きが地元で盛んになり少なくとも延岡では知られるようになった。
後藤勇吉は日本の飛行士の草分けである。今で言えば宇宙飛行士みたいなもの。
詳しくは上のハービーさんのリンク先を見ていただきたい。
下:延岡高校で。左は若山牧水、右は後藤勇吉

下:後藤勇吉  右は少年時代。模型ヒコーキを持っている。非行少年ならぬ飛行少年。ライト兄弟が初飛行に成功したのは勇吉7歳の時。昔の少年の憧れはヒコーキ。今の子供はヒコーキにあまり関心がない。車にもないが。

下:20歳のときから尾末湾(門川湾)で水上機で飛行練習に励む。ライト兄弟からわずか13年後。第一次大戦中でヨーロッパでは武器としてのヒコーキが急速に発達していた。

下:尾末(門川)の浜にこんな立派な格納庫を持っていた。家庭が裕福だったようだ。

下:資料を見ると尾末湾での初飛行の写真として下の写真が載っているのだが、後ろにうっすらと行縢山が見えている。だからこれは延岡港あたりの写真ではなかろうか。下は現在の方財から行縢方面を見た写真。


下:門川海浜公園にも像が建っている。海ではなく陸の方を向いているのが気になるが。

下:勇吉が水上機の練習をした波静かな尾末湾。中央に乙島が浮かぶ。

どっこい生きている

宮崎県では最近チョコチョコと小雨は降ったが渇水が完全に収まったわけではない。山で茶色く変色していた照葉樹たちはどうだろう。わずかな雨で一息つけただろうか?山は依然として茶色のままであるが。
下:これは一月前の写真。

下:同じ所の現在のようす。依然として枯れ木が多いようだが。

下:近くで見るとなんと枯葉の間に若芽が出ている。

下:やはり死んではいなかった。遅ればせながら新緑に参加しようとしている。
およそ5月といったら緑萌ゆる季節のはず。今年はかなりカレンダーにズレが生じそうだが全山が鮮やかな緑に染まるのを心待ちにしている。

延岡高等女學校

延岡高校に行ってみたら庭に延岡高等女學校の校歌碑が建っていた。老いたるOG達の熱意により、このごろ建ったばかりのようだ。延岡高女は戦後すぐに延岡中学と統合され新制高校になっているので、私の母校と言えなくもない。

山田耕筰:作曲、北原白秋:作詞、という昔のゴールデンコンビの作である。学校の設立者である旧藩主内藤子爵の御威光と財力のおかげらしい。白秋・耕筰コンビの校歌は無数にある、と思っていたらそんなにムチャクチャ多くもなかった。ウィキによれば16校。そのなかの一つということは意外や貴重かもしれない。日向市の細島小学校校歌も白秋だが作曲はべつのようだ。小学校校歌は白秋は13校。かつて商港として栄えた細島にはなにかコネがあったのか?

下で校歌を鑑賞していただきたい。歌は延岡高校の皆さん。
下に歌詞も示した。さすがの白秋先生も校歌となると類型的にならざるをえないような。



延岡高等女学校校歌  作詞 北原 白秋  作曲 山田 耕筰

1.                  
藤浪の春にあひて           
開くもの 花のみかは         
少女子は姿ともに           
心ばえやさし つつまし        
匂えよ 下り藤           
紫の霞引きて           
延岡高女 延岡高女          
紫の霞引きて

2.
五箇瀬川ながれ清く
今に澄む月の光
曇りなき真かくぞ
白玉のま玉磨かむ
響けよ 水の瀬に
まさやけき玉の白玉
延岡高女 延岡高女
まさやけき玉の白玉

私の母は延岡高等女學校出身であるが、途中で転校しているので卒業生名簿にはないかもしれない。おばが大勢いるので何人かは知らないがほとんどこの学校に通った。もしかすると内藤記念館の石段にズラリと並ぶ少女たちの中に彼女らのうちの一人がいるのかもしれない。


上の写真を見ていたら、あれ、あの石段てあんなに幅が広かったかな?と気になった。やはり今の写真と比べると全然広いようだ。今は植え込みなどで狭くなっている。


私の母が延岡高女にいたころはすでに日豊線が開通(1922年、大正11年に延岡まで延伸)していたので土々呂から汽車通学だったが、年上のおばたちはなんと徒歩で通学していたという。その距離なんと10km!私の父は旧制延中であったがやはり土々呂から徒歩通学、9km。昔の少年少女の健脚おそるべし。

下:戦前の延岡市街の地形図。「女学校」は現在の岡中のところ。「中学校」は現在の延高のところで同じ場所。これで見ると市役所は城山の下、野口記念館の場所にある。現市役所の場所には旧延岡小学校がある。(クリック拡大)

県庁

宮崎市に行ってヒマができたので宮崎県庁を見物してみた。何十年ぶりだか思い出せないくらい久しぶりである。むかし昼飯を食べるために庁内食堂に行ったっきり。まったく県庁に用事のない人生である。
ソノマンマ氏が知事だったころはすっかり観光名所になっていた。さてコクバルブームが去った今は?

下:雨だったがけっこう次々と観光客が来ていた。台湾人観光客と思しきグループもいた。オフィスビルとしては非効率なことははっきりしているんだから文化財として博物館的な利用に割り切ったほうが観光資源として有効なんじゃないだろうか。

下:マネキンはいまだに現役で観光客に愛想をふりまく。現知事はいささか華がないからなぁ。そこにいてもだれも気づかないほどに。まぁ、政治家として有能ならそれでいいんです。前知事の時代の方が異常だったんですから。

6月16日付けの朝日新聞によれば、県議会でこのマネキンが争点になった。渡辺創県議が前知事への依存はやめるべきとして、人形撤去を求めた。河野知事はこう答弁した。「人形と並んで観光客が写真を撮っている横を私が通っても、見向きもされない。」人形は観光資源として今後も残す、という考えを示した。

下:知事室。休日なので一般公開中。

下:大理石の階段手すり。あちこちに化石が見える。

下:受付も重厚な大理石。昔の建築は贅沢である。

下:外壁。

下:前庭にはいろいろな老木が。これはアコウ


下:朝日書評で面白そうだった。多元宇宙について理論的に解明しているとか。いずれ読んでみよう。「エレガントな宇宙」は新刊ではない。ヒモ理論を解説しているのであるが、わかるようなわからんような理論である。いずれも宇宙の深遠をわかりやすく教えてくれる必読の本。

高平山

今を去る25年ばかり前に延岡市の高平山(こびらやま)に登ったことがある。
山頂まで車道があり頂上は牧場になっていて延岡市外が一望に見下ろせ大変景色が良かった思い出がある。しかし今となってはどこからどうやって登ったのか全く思い出せない。
今日、たまたま鹿狩瀬を通りがかってナビを見ていたら高平山の表示があり、この山のことを思い出した。さっそくそこらの人に道を聞いて登り始めた。どうせナビにもない道だろうと思い詳細表示にしないまま。ともかく全く標識や看板類がないので合う人ごとに確認しながら細い林道を登る。

下:ナビのない人はこの分岐で道ナリに右に行ってはならない。左の細い道が山頂への道です。私はマンマとひっかかりました。ナビがあれば迷わないだろうが。ともかく何の案内もない。

下:林の切れ目から下を見る。祝子川と鹿狩瀬近辺が見える。交差点の佐藤商店から左に入ると高平山に向かう。


道は細いが舗装されているし勾配はとてもゆるい。しかしかなり長々と登る。ナビをあてにしてなかったのでさんざん迷いながら舗装の終点まできた。
下:この先は車高の高い車でないときびしいかもしれない。山頂までは歩いてもわずかである。ここにも何の案内板もないので不安。


下:実はこの道を道ナリに行くのが正解のようだったが。

下:途中で山頂のアンテナに誘われてこちらの道に右折してしまった。
いずれにせよ山頂には着くのだが。

下:でこれが山頂。周囲は木が多くあまり見晴らしがきかない。おかしいな、昔来たときには広々とした牧場があって牛が草を食っていてとても見晴らしがよかったんだが、長い年月で牧場もすたれ木が生い茂ったのだろうか。

下:木のスキマから愛宕山、赤水方面を望む。

下:かつては全周が見渡せた時もあったのだろう。

下:頂上から下の方に下る道があった。実はこれが正しい道だったのである。
この少し下に広場があってそこは見晴らしが利くらしい。帰ってネットで調べて知ったことであるが。その時は知らずにもと来た道を下山してしまった。残念。

下:山頂から周囲を見回す。

高平山 posted by (C)オトジマ

帰路にナビの詳細表示をしたらしっかり道が表示されていたがあとの祭り。
家でグーグルマップを見たら山頂の下に見晴らしのよさそうな広場があった。ただし昔とはだいぶ違うようだ。いずれにせよなんらかの案内があっていいのではないだろうか?管理者は物見遊山の人が来る事が念頭にないのかもしれないがこの山の開発には市も関係しているんだからそのくらいの市民サービスはあってもいいだろう。


八女福島の古い町並み  寺

古い町並みにつきものは酒蔵や神社だけでなく寺もそうである。というか日本全国寺と神社のない集落はあまりないだろうが。まぁ、檀家のフトコロの豊かな地域には立派な寺がある蓋然性が高いということ。

八女福島では無量寿院が大変立派であった。5月5日はもうすでにとても暑い日だった。日影のない町を歩いていてこの寺の豊かな緑陰は実に気持ちが良かった。
下:境内の内外に巨木が聳える。


下:本堂内部


下:鐘撞き堂。ここにも丸石の石垣が。


下:本堂裏には古くて立派な墓石たち。あのラッキョの親玉のような墓石はかなりのボリュームがある。石橋忍月などの石橋家累代の墓地だとか。


下:朱塗りがあざやかな八角堂もある。


下:参道には地蔵堂もある。


下:ここの地蔵たちの前掛けはシックで趣味がよい。


下:前掛けでぐるぐる巻きにされた地蔵


下:正福寺の本堂の前ではアヒルが瞑想中。さては仏様の使いか思ったら、境内にある保育園の遊具だった。他にアンパンマンやキティちゃんやらいろいろいた。ウーム。子供たちにはありがたいだろうが観光客にはいささか興ざめ。


下:最近芸能界にも城マニアが多い。




八女福島の古い町並み 福島八幡

古い町並みにつきものは酒蔵もそうであるが神社もしかり。豊かな町だったなら立派な神社がある。八女福島では福島八幡社である。
クスやイチョウの古木と重厚な社殿や楼門が貫禄を感じさせる。

下:門の屋根にネット。傷んできたが修復する予算がないのか?古色を保って修復して欲しいな。

下:社殿

小高い丘の上にあり、北側には長い舞台状の塀がめぐらされる。何に使うものやら。丘の斜面にクスの巨木。すぐ下に民家が密集しているので枝をかなり刈り込まれているようだ。元は広く枝を張ったすばらしい巨木だっただろう。
福島八幡社
福島八幡社 posted by (C)オトジマ

下:歴史ある町だけに境内には各種奉納の灯篭や狛犬、石碑が乱立。
これは紀元2600年記念の奉納だから1940年(昭和15年)。70年もの。御影石でありきたり。

下:これは奥の本殿横にほとんど放置されている狛犬。石の肌を見ると砂岩のようである。デザインも流麗でなかなかの逸品。もとはこれが拝殿前にあったのだろう。年銘は確認できなかったがおそらく江戸時代か。どこかに保存してほしいもの。

下:これは石段の下の神社登り口のもの。写真ではわかりづらいがかなり大きくて迫力がある。文久3年(1863年)の年銘。江戸時代の最末期。

下:最初の鳥居。この鳥居を右に曲がると濠がある。
福島八幡社
福島八幡社 posted by (C)オトジマ
下:神社の南側には大きな濠がある。気持ち良さそうな緑陰がある。噴水があるところを見ると流水ではない。かつての福島城の濠の跡という説明もある。
福島八幡社
福島八幡社 posted by (C)オトジマ

下:境内各所がこのような玉石で葺かれている。奥の本殿まわりの傾斜面も見て欲しい。かなり緻密な仕事である。(クリック拡大)あまり気にも留めなかったがこれはこの神社の一大特徴だそうだ。場所によっては灯篭祭りの見物席の腰掛になるというが人間のケツには石がやや小ぶりすぎるかもしれない。


下左:拝殿前に陶器製の灯篭。珍しい。破損防止のためか金網が。
下右:イチョウの木の上にヤツデが暮らしている。珍しい。(クリック拡大)

八女福島の古い町並み 堺屋

福島の町並み保存のきっかけとなったのは木下家住宅(堺屋)が市に寄贈されたことによる。だいたいどこの古い町並みでも核となるのは酒造家である。臼杵では野上弥生子の小手川酒蔵、日田ではクンチョウ、山鹿では千代の鶴酒蔵、肥前浜は酒蔵ばかりが並ぶように。城下町ではない在郷町系の町では特にそうである。木下家も古くからの酒造家であった。

表は現在蕎麦処「蔵屋」として利用されている。中庭の奥にある離れ屋敷が公開されている。あまり大きな建物ではないが隋所にかつての富を感じさせるものが残っている。
堺屋 木下家住宅
堺屋 木下家住宅 posted by (C)オトジマ

下:南側駐車場から庭を覗く。
堺屋 木下家住宅
堺屋 木下家住宅 posted by (C)オトジマ

下:トイレのタイルがおしゃれ。明治期のこんなトイレでは染付便器が流行ったものだがこれは青磁釉の磁器製便器か。あのゲタ状のものはあそこに固定されている。今では利用できない。
堺屋 木下家住宅のトイレタイル
堺屋 木下家住宅のトイレタイル posted by (C)オトジマ

下:部屋の扉は杉の一枚板。上がりかまちにはケヤキの広い一枚板。
金持ちの象徴である。

下:庭園は広くはない。手前の石とその下に水琴窟。涼しげな音がする。思わずじっと聞き入る。


福島には天保年間には17軒も酒造場があったという。蛭子屋、肥後屋、麴屋、橋口屋、大津屋、山形屋、堺屋、油屋、三木屋、

八女福島の古い町並み 4

下:この店の看板を見て娘が「ライオンのマークはライオンだったんだね」と驚いていた。そういえば昔はあのマークだったね。今はLIONの文字だけでつまらないけど。上の鶴丸マッチの看板も珍しい。ホーロー看板もそうだけれど昔の看板は楽しい。(クリック拡大で詳細)

下:どういうわけか今のライオンちゃんも描かれている。

下:大塚のホーロー看板だらけの骨董屋

下:細い路地裏のカフェ。「ao cafe」かなりボロボロの木造洋館風というかむしろ昔の小学校か公民館風の建物。のわりにはコーヒー450円と結構な料金なので入るのはやめた。中にはそこそこお客さんがいた。

下:蕎麦処「史蔵」の店内。店内にはさまざまな骨董が並んでいて楽しい。店内外のレトロぶりに反して開店して半年くらいの新しい店だそうだ。
もりそば690円を食べた。おいしゅうございました。通りには観光客はゾロゾロいないのにどういう訳か店内は満員。

下:あの木立の中にある古い民家はなんと歯科医院。看板を見て目を疑い門内に入って確認してみたら現在も営業中であった。なんて素晴らしい歯医者さんでしょう。臼杵でも古い民家の歯医者を見かけたが、こんな光景が町の貫禄をかもし出すんではないだろうか。

下:石橋歯科医院である。石橋一族は昔からこの地で医業に携わってきているというからこの歯科医院もその一人だのだろうか。なお石橋一族は石橋忍月、石橋秀野、山本健吉という文化人も輩出している名家である。


下:古い商家には仏壇店が多い。昔は仏壇、石灯籠、提灯などの伝統工芸品の産地として栄えた地域だからである。

下:提灯店も多い。これは伊藤勘助商店。大きな店だ。店正面がいまひとつ伝統的意匠ではないのが残念である。盆提灯の贈答をする習慣が廃れてきた今ではなかなか商売が大変ではないんだろうか。私も長い間生きてきたが提灯を買った記憶がない。もちろん仏壇だって石灯籠だって買ったことがない。

八女福島の古い町並み 3

八女市のホームページには福島の町並み保存に至った経緯が紹介されている。興味ある方はぜひご覧になっていただきたい。
福島の町並み保存が始まったのはこの20年のこと。市民運動として保存運動がはじまり2002年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。この指定には住民にとって不都合もある。家の改築新築にさまざまな制限が加えられる。
だから建材に時代がついてないので新築と思しいが外見は伝統的な立派な民家が見られる。

下:和洋折衷のすてきな家。少なくともこの部分は新築のようだ。驚くような大邸宅。


下:この商家風の大きな家も新しそうだ。


下:パッと見ると新聞販売店とは気づかないくらい回りの家並みに溶け込んでいる。看板がなかなか凝っている。


下:整骨院もこのとおり。


下:ピンク色のペンキがすてきな洋館風木造建築。八女市のホームページを見るとこの建物は修復以前はひどいボロボロだったことがわかる。いまは洋食屋「きんぷく亭」として営業している。


下:駄菓子屋さん。近隣の子供向けなのか観光客向けなのか?


下:この大きな商家風建物はもうほとんど廃屋。このままでも肥前浜風でモニュメンタルだが朽ち果てれば更地になりかねない。たいへんもったいない。なんとかして救って欲しいものである。

八女福島の古い町並み 2

下:堺屋で八女福島観光マップを手に入れた。とはいっても今年の「八女ぼんぼりまつり」のおひなさまめぐりマップであるが。もしかすると公式の観光マップはないのかもしれない。わずかな予算でできるのであるからぜひルート各所に置いておいて欲しい。黄色いラインが伝統的家屋の並ぶ通りである。(クリックで拡大)


結論的に言えば八女福島の町並みはなかなかのもの。伝統的町並み愛好者を十分満足させる。ともかく白壁の家屋の数が多い。個々の家屋の立派さでは吉井に劣るが数が多い。何よりいいのは車の通行がとても少ないので静かな通りを落ち着いて歩けるのがいい。吉井は白壁の町並みが筑後街道に面し車の交通量が多く最悪。
さらに福島は観光客が少ないのがいい。去年は同じ5月5日に日田の豆田を訪れたが観光客と土産物屋の多さに驚いた。そのわりに町並みはたいしたことはなかった。その点ここは期待以上である。さらなる整備を期待したい。

下:ごらんのように5月5日というのに観光客も車もいない。

下:周遊ルートは黄土色に舗装されているのでわかりやすい。

下:これで電柱がなかったら最高なんだけどね、九電さん。

下:洋館風看板建築もある。これは観光客向けの木工小物の店。店内に糸鋸があり作業場でもあるようだ。

下:八女茶の土地柄で茶舗が多い。そぞろ歩く観光客もいないではない。


下:今里家住宅。房屋と書いてある。提灯などの房を作る業者。見学できるのかどうか知らなかったので入らなかった。古い屋根瓦がえもいわれぬ味わいを出している。







八女福島の古い町並み

久留米に息子がいる関係で筑後地域が身近に感じるようになった。久留米近辺には古い町並みを残す地域がいくつもある。一昨年に白壁の町で名高い吉井に行き、昨年は小さな城下町秋月に行った。ということで今年は久留米の南隣の八女。

八女は八女茶で有名であるが他にはあまりウワサを聞かない。
ウィキで調べてみると五木寛之とか黒木瞳(合併で黒木町も八女市域になった)、ホリエモンの出身地であること以外に特に記事がない。歴史的にも特筆することはないようだ。
八女は海から遠く港湾がないし幹線鉄道の駅がない。かつて国鉄矢部線が通っていたが戦後の開通である。今でこそ高速が通るので交通の便は悪くないが昔は必ずしもよくなかっただろう。明治時代までは伝統産業で栄えたが近代産業に取り残され戦災にもあわず、古い町並みが残ったのではないだろうか。近所でいえば山鹿とロケーションが似ている。

下:古い町並ときたら必ず造り酒屋の蔵がつきもの。国道筋から見える古い建物というとこれくらいしかない。喜多屋酒造場。


八女インターから市街地に向かうと「伝統的町並み福島この先4km」の案内がある以外はこれといった看板は見当たらない。上の写真の酒造場の少し先で「福島」の案内があるがこれまたどこから国道を右折していいのやらわからないので適当に右折したらたまたま市役所があった。駐車場はガラガラなので留める。日曜閉庁で中に入れないので観光案内マップも手に入らない。この手の町では散策を始める前にマップを手に入れたいものだがだいたい終わりごろになってようやく入手できるというパターンが多い。幸い駐車場の隅に観光案内板があったのでそれを記憶に入れて徒歩で出発。観光ルートはおおむね市役所を中心として東西に広がる徒歩圏だ。

下のマップを印刷しておいて出かけたほうが無難である。(右クリック→画像を保存→印刷)


下:市役所から東に向かうとまず大坪茶舗の威容が目にはいる。黒いところはトタン張り。


下:大坪茶舗。八女茶が名産だけに古い茶屋が多い。大変立派な店構えである。この伝統的町並み保存地区の真ん中にあの背後の古い高層ホテルがあるのが興ざめ。あれはビジネスホテルであるがとても流行っているようには見えない。ただし観光客にとっては絶好の場所にある。泊まりの観光客がいればの話であるが。


下:白壁は豆屋さん。豆屋で商売が成り立つのか不思議である。その背後にある学生服店も今時成り立つのが不思議であるが。

下:洋品店もどう見ても商売にはなってなさそうな。「日本一のカクイワタ」の看板がこの店が昭和30年代から時間の経過を止めているのをうかがわせる。あのころはワタはおなじみの商品であったが今時ワタを買う消費者がいるだろうか。




黄砂 2

3日の夜に雨が降ったので4日は黄砂が晴れると期待していたらそうでもなかった。天気は回復したが青空は戻らなかった。この日南阿蘇から熊本に抜けたのだが、熊本空港近辺の県道206号は阿蘇に向かう行楽の車列が数珠繋ぎ。阿蘇では遠望がきかないことに失望したことだろう。
下:高森町内で。水の張られた田と阿蘇山。空は白い。


下:俵山から熊本平野を見下ろす。黄砂で遠景は見えない


5日の子供の日になってようやく黄砂が薄らいだ。完全にクリアとは言い難いが青空が現れた。
下:久住高原から阿蘇を望む。普通の日くらいには遠望がきく。


下:4月17日に行ってまだ咲いてなかった赤川温泉の山桜並木をのぞいて見たらすでに葉が出て花は散ったあと。でも美しい並木道になってました



赤川温泉並木 posted by (C)オトジマ

黄砂

昨日今日とひどい黄砂だった。ゴールデンウィークの行楽に出かけた人は景色がおぼろにしか見えなかっただろう。視界5kmというから近くの山でも白っぽくしか見えない。
下:日向市米の山に来た人々も景色が見えず失望の声を上げる。1,2km先のお倉ヶ浜もやっと見える。


下:日向市街地

下:太陽もこのとおり

昔はこんなひどい黄砂はなかった。中国、モンゴルの草地の裸地化が進んでいるのだろう。中国が日本の原発対応に不満を示しているが中国は黄砂が風下の国々に与える害については無関心なようだ。むしろ海洋や土壌に栄養を与える益のほうが大きいなどとうそぶいているらしい。ともかく春になると九州では青空が見えない日が多くなる。白っぽい空では写真が映えない。なんとかしてほしいものである。

津々良―沖田林道 -その2

津々良川水系と沖田川水系の分水嶺あたりはやや坂道が続く。このあたりだけセメント舗装されている。そこから沖田ダム方面に下り勾配が続き最近敷かれたと思しきバラスト道になる。

ここいらになると人間の活動が身近に感じられ里が近いことがわかる。工事や林業関係の車の通行が少なくないのだろう。
下:沖田ダムも程近い切通しで突然目がおかしくなったのかと錯覚した。あたりが赤く見えるのである。車から降りてみると周囲の岩肌が赤い。なんという地質なんだろうか?

下:沖田ダムに到着。桐の花、藤の花の紫が美しい

人里離れた林道を走行すると車窓風景は杉の造林ばかりで単調。おやっ、と思うものはない。人の気配が感じられるとほっとするものだ。



津々良―沖田林道

地図上に道路がない所のルートは手書きなので必ずしも正確ではない。

より大きな地図で 沖田-津々良林道 を表示

門川町の五十鈴川支流に津々良川がある。流域にはわずかな戸数しかない。グーグルマップでも私の車のナビにもこの川の途中までしか道はないが林道が延岡市沖田ダムまで抜けているはずである。試しに行ってみることにした。
下:国道388号。門川方入り口の津々良川が五十鈴川に合流する地点。津々良川は完全に干上がっている。


田に水を引くためのホースが見える。わずかな水溜りからポンプアップしている。伏流水があるのかも。子供が小さかったころはいつもここで泳がせていたものだが。


下:上流に行くと川に少し水が見え出す。ここらには「お滝」とよばれる滝があるが今は枯れているはず。昔子供と来て水遊びしたことがある。多少ヤブ漕ぎしないと到達できないので行くのは簡単ではない


下:数戸の集落を過ぎるとすぐ地道になり、あとは沖田ダムまでほとんどこの調子。四輪駆動車でなくとも十分走れる。


下:はるかな山奥に1軒だけ廃屋がある。こんな所で暮らせたものだろうか。不思議だ。


下:ナビが真っ白な画面なのでどこらかわからなかったが人家も集落も全くないのにいきなり墓地が現れた。雑草もなく人がお参りした形跡がある。墓石は江戸時代のものが多い。
戦後しばらくまでここには5戸ほどの集落があったという。今みたいな林道はないから、山道を越えて五十鈴川流域と往来していたという。子供は5~6km山越えでを西門川小に通った。そんなに昔の話ではない。

下:享保、天保、文化、と江戸時代の元号が並ぶ。三百年間もお参りする子孫がいるとは驚きだ。江戸時代にはこんな林道はなかっただろうからどうやってどこの里と通行したんだろう。直線距離だと、伊形からが近いかもしれない




プロフィール

トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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