コクリコ坂から  原作マンガ


上:KDDIのCMより。コクリコ荘のイメージか?

JR石川町近くのイタリア山公園にある外交官の家である。入場無料。
横浜
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既述のように「コクリコ坂から」は「なかよし」に連載された少女マンガである。映画とタイアップで映画公開直前に発行された角川文庫版を買ってきて読んでみた。
普段は少女マンガどころか少年マンガも読まないのであるが、キラキラのおメメや突如主人公を取り巻く花々を辛抱しながらなんとか最後まで読み通した。結論的にはこのマンガと映画は全くの別物。読まなくても全然損はない。



※原作と映画の設定の大きな相違。
原作は1980年代。コクリコ荘の住人北斗は男で海があこがれる人。母は写真家で風間の家は写真店。学園紛争の争点は制服自由化。父の死は朝鮮戦争と無関係。芸者の金太という重要な脇役がいる。マンガは学園ラブコメ風であるがそのコメの部分は映画ではすべてカット。結果、映画に残ったのはコクリコ荘と主要登場人物、異母兄妹の恋愛などの基本設定だけ。


下:マンガの「コクリコ坂から」より(クリック拡大)

下左:海が毎朝揚げるのは信号旗でなく国旗。ただし日の丸じゃないよ。なぜか英米の旗。(クリック拡大)
下右:北斗は原作ではイケメン男。海があこがれる人。

下左:原作の祖母は軽くてコミカル。祖父もいる。
下右:ベッド上の海はリッチ感があって全然貧乏たらしくない。

吾郎氏談。---映画では海は板の間で、制服のスカートを寝押しして地味な柄のせんべい布団に寝ている。製作中にそれを見た駿氏が「海ちゃんがそんな貧乏たらしいフトンに寝るか!白いフトンカバーのかかったフワフワの布団だろ!」と文句を言ったとか。時代設定は吾郎氏が生まれる以前だから時代感覚がつかめない吾郎氏は年配者たちに聞いて回ったそうだ。海と同世代のプロデューサーの鈴木氏は貧しい家庭ではなかったが「当時はフトンカバーなんてなかった」というので原案どうりにしたという。私も吾郎氏の案に賛成。



「コクリコ坂から」は1980年1月から8月まで連載だから、長期連載ではない。宮崎駿氏は「不発に終わった作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)」と言っている。「耳をすませば」は1989年に「りぼん」に連載だから、コクリコの方が9年早い。

あちこちで語られていることだが

コクリコ坂から  カルチェラタン



内部がきわめて印象的で、その魔窟的な不気味さがひとつの見せ場になっている。
下:パンフレットから(クリックで拡大)


高い吹き抜けホールの周囲に階段や手すりの回廊がある。
これはどこかで見た設定である。

まずは最も古いものから。
右の図は城の内部で吹き抜けの中空に橋が架かっている。吹き抜けの周囲には欄干のある回廊が見える。(クリック拡大)

これは1980年に宮崎駿氏が描いた「もののけ姫」のストーリーボードでのちには「もののけ姫」という絵本としても出版された本の絵である。
城の外観がまがまがしく、いかにも悪鬼が住んでいそうである。昔、この絵本を読んだときこの城の絵を見ただけでワクワクした記憶がある。ストーリーも面白そうで映画化をおおいに期待した。
ココで読むことができる。ただしフランス語。絵だけでも楽しめる。HTLMをクリック。

ところが実際映画製作に取り掛かると、宮崎氏はこの案を早い段階でいさぎよく捨ててしまう。企画段階で公開された1992年のディズニー映画「美女と野獣」と話がかぶる部分があるのが原因だと思われる。結局、絵本とはタイトルこそ同じだが、お話は全く異なる1997年公開の映画版「もののけ姫」ができた。映画そのものは大ヒットしたが、当時私は絵本版を期待していただけに大変失望したものだ。改変された「もののけ姫」は興行的には大成功したが、作品的には私はあまり評価しない。

しかし、城の内部の設定はその次の作品「千と千尋の神隠し」に生かされた。湯婆々の経営する銭湯「油屋」の内部は絵本番「もののけ姫」のアイデアがふんだんに取り入れられている。
下右:「油屋」内部を地下から見上げたところ

下:「油屋」内部、上階からの俯瞰


下:吹き抜けと回廊、中空の橋、という設定は「ラピュタ」でも見られる。


ともかく宮崎駿氏は30年も昔から大きな高い吹き抜けを持つ魔窟じみた建築に執着していることがうかがえるのである。目黒雅叙園がモデルともいわれる。ジブリ美術館も大きな吹き抜けがある。コクリコでは再びこんな建物を描きたくての企画か、とも思われる。
ちなみに、原作の少女マンガ「コクリコ坂から」では学校で持ち上がる問題は古い建物の保全問題ではなくて制服自由化問題である。カルチェラタンなど出てこない。なるほどそれではジブリ背景陣の見せ場がない。

下:油屋のイメージボード。外観もカルチェラタンに似ている。
10年前の「千と千尋の神隠し」の「ジ・アートオブジブリ」を見るとその背景画の密度の濃さに圧倒される。あの作品では我々がどこかで見た懐かしい光景に仮託したとんでもない異世界を背景陣の力業で現出させたものであった。



下:カルチェラタンの部室でガリを切る海とガリ版印刷する俊。私も小中学生まではこんな作業をしていた。高校ではファックス製版機に移行していた。


映画の「コクリコ坂」の背景はいつもジブリ作品がそうであるように素晴らしい。もうもうたるケムリの重工業地帯であれ、小汚い木造住宅のならぶ運河沿いの下町だって情感横溢で密度が濃い。
ところが、キネマ旬報の対談で宮崎吾郎氏によれば、昨年の「仮ぐらしのアリエッティ」から休むまもなく制作が続行したので背景陣も疲労がはなはだしく、さらには絵コンテの遅れ、製作期間の短さなどで、かなりの手抜きたらざるを得なかったとか。手抜きは背景のみならず作画、動画にもおよんだ。たとえば作画枚数17万枚の「ポニョ」ではキャラクターが静止する場面はほとんどないが、作画枚数約7万枚の「コクリコ」では1カットの秒数が短くなり、止め絵と呼ばれる動かない場面が多くなってしまったとか。ただし、怪我の功名でそれがテンポアップにつながり、切れ味がよい作品となったともいう。まぁ。我々素人が見ている分にはさほど手抜き感はわからない。海が屋内を歩く様がぎこちなく感じるくらい。

背景画集の「ジ・アートオブコクリコ坂から」(The Art of From Up On Poppy Hill)がamazonから届いたので見てみた。それを見る限りは素晴らしい背景画ばかりである。意外なのは吾郎氏の絵の達者さである。彼の描くイメージボードが風景、屋内、人物とりまぜて多数収録されている。さすがにプロの絵である。中年になってからこの道に入ったとは思えない。おそらく子供のころから絵心があったに違いない。

下:吾郎氏描く横浜港

下:昔懐かしいオート三輪「くろがね」のブランドを覚えている人は年寄り。吾郎氏描くイメージボード



アニメの監督は必ずしも絵が描ける必要はないらしい。大物でも高畑勲氏はまったく描かず、押井守氏も演出意図を伝達するに足りるレベル位のもので絵描きの絵ではない。しかし、監督の意図をスタッフに伝えるためには絵は描けるに越したことはない。実は彼が絵が描けることは前作の「ゲド戦記」の絵コンテでも垣間見せていたし、数年前の堀田善衛関連企画の折にも感心したことがある。
下:吾郎氏描く京の町。藤原定家『明月記』のアニメ化を探ったころのイメージボード。

下:吾郎氏。平安末期ともなると遷都400年の間に京都は鬱蒼たる樹木に覆われて、薄暗い物騒なところになったという仮説。これはその部分である。全体を見るとイマジネーション豊かなプロの絵である。


画力と演出力は比例するわけではないが、画力はそこそこの天性と意識的な努力がないとここまでには達しないもの。吾郎氏が偉大な親の七光りだけでそのポジションに留まっていられる訳ではないことを示すものである。前作では吾郎氏の起用そのものに反対し、製作中は息子と顔を合わせることも無く徹底的に突き放していた駿氏が今回はシナリオを書きバックアップを怠らなかったのも息子の能力を見限るどころかかなり評価していたからではないだろうか。
8月9日にNHKが「ふたり・コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~」というドキュメンタリーを放映するのでその内幕が明らかになる。楽しみだ。









コクリコ坂から   紺色のうねりが





彼は花巻農学校で教師をした時代があるのでその卒業生に贈った詩なのかと思っていたが、どうやらそうではなく母校の旧制盛岡中学校友会誌への寄稿として書かれた。ただし完成せず、草稿のみ残されたものを賢治没後はるか後、戦後に雑誌編集者によって草稿の断片が再構成されて公開された。だから厳密には賢治の真作ではない。それにもかかわらず素晴らしい詩である。再構成者の確かな腕がうかがわれる。そこらの詳細はココで。

賢治の詩の草稿がもとになって一遍の詩が生まれ、さらにそれを元に「紺色のうねりが」という新たな詩が生まれた。そんな手法は和歌の世界では昔からあるので、別に不思議ではない。歌の歌詞には冗長な「生徒諸君に寄せる」のエッセンスを取り出した「紺色のうねりが」は、世に出る若者への餞と、困難に直面する日本へのメッセージとして秀逸である。

「紺色のうねりが」では「水平線に没するなかれ」という繰り返しが印象的だが、「生徒諸君に寄せる」では「地平線」。「紺いろの地平線が膨らみ高まるときに」より水平線の方が自然である。地平線が膨らみ高まることは地質時代的なスパンではありえても、現実にはありえない。しかし水平線なら津波という現象がある。それに映画の全体的テーマが「海」である。ちなみに英語では水平線も地平線も同じ「horizon」(ホライズン)である。
賢治は地震や津波の被害の多い岩手の人ではあるが、内陸部に住んでいたので津波を想定した詩とならなかったのではないだろうか。
いずれにせよ「紺色のうねりが」は大津波の年にふさわしい歌詞となった。また賢治の詩業の一面を掘り起こし、あらたな生命を吹き込んだ。

下:「紺色のうねりが」の合唱場面の後で徳丸理事長がカルチェラタン存続を約束する場面。
ただし理事長のセリフは「私が責任を持って別のところに新しいクラブハウスを建てよう」というものでそれに生徒達が歓喜する。その歓喜を見て観客はカルチェの存続を推測するほかない。理事長が「この建物を保存する」と言ってもらうと話はスムーズにつながってわかりやすいのであるが。




豪放磊落に描かれる徳丸氏は歴然と徳間康快がモデルになっている。劇中では徳丸の会社は出版社で「アサヒ芸新」つまり「アサヒ芸能」のポスターが張ってある。ジブリの敏腕プロデューサー鈴木敏夫氏もかつてはこの週刊誌の記者であった。
徳間康快は徳間書店のワンマン社長であり、当初はスタジオジブリのオーナーでもあった。また彼は「逗子開成学園」の理事長を務めていたから適役といえば適役。
とすると、俊や海が電車に乗って東京に訪ねて行った先は徳間書店があった新橋ということか。

※カルチェラタン、背景、美術については

下:横浜、港の見える丘公園に掲げられた信号機。「ククリコ坂」とのタイアップ。
横浜
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※2013年7月の「風立ちぬ」レビューはコチラ






コチラへ

コクリコ坂から

私は大昔からのジブリファンなので、前評判のいかんにかかわらずジブリの映画は見に行く。


今年は「コクリコ坂から」。監督は宮崎駿の息子、吾郎氏である。吾郎は元来信州大学の林産関係を出て、造園技術者として働いていたのであるが、ジブリ美術館の設立とともにジブリにスカウトされ、さらには前作「ゲド戦記」で映画の監督をするに至った。

「ゲド戦記」はジブリブランドの力で興行的には失敗はなかっただろうが、作品的にはとても成功したとはいいがたい。職人芸が必要とされるアニメーションでずぶの素人がいきなり傑作を作るという離れ業は期待してはいけない。
ただし、あれはいかに原作が優れていようが、短いアニメーションにまとめるとなるとだれがやってもおいそれとはうまくいかない作品のはずで、吾郎氏ばかりを責めるわけにはいかない。

だから今回も制作が公表されてもあまり期待はしていなかった。しかし7月になり試写会がはじまるとレビューで好評価が多いので、意外にいいんじゃないか? という期待も出てきたが、やはり自分の目で見なければなんともいえない。
ということで、2回も見てきた。私の批評眼は自分自身必ずしもあてにならない、と思っているのでこの作品については1回で判断を下せなかったからである。



1回目では、「まぁ、悪くはないけれど....今ひとつ食い足りない」、というくらいの印象であった。80分しか尺がないのでストーリー展開に遊びがない、とか、察しの良くない観客は置いていかれる説明抜きの飛躍があるとか、泣かせどころが単純である、とか釈然としない点があるのである。

間、数日を置いて2度目を見た。今度は話がわかっているので余裕を持って見る。すると、音楽といい話のテンポといい、快適なリズムで展開し、過不足がない。泣かせどころも何箇所もちりばめられている。スッキリ切れ味のいいエンディングにはTVCMですっかり耳になじんだ「さよならの夏」が効果的にかぶさる。こんな切れ味のいい幕切れはジブリでは久しぶりではないだろうか。そこは学園物ラブストーリーという設定も共通する「耳をすませば」に似ている。

実は「耳をすませば」と「コクリコ坂」の共通点は他にもあって、どちらも少女マンガ雑誌の連載物、宮崎駿の企画脚本、若手の監督、劇中に歌う場面が効果的に使われている、東京近郊の具体的な町が舞台、すてきな洋館が出てくる、二人が自転車にニケツで乗って坂道を疾走する、などなど。宮崎氏は背後から若手をこういう形で支援すると佳品ができるようだ。自ら腕を振るうと力みすぎて独りよがりになってしまう、という作品が近年多いのである。「もののけ姫」「ハウルの動く城」「ポニョ」など。

大変満足した2度目の鑑賞であった。自信を持って人に薦められるのであるが、こればかりは各人各様の感性をお持ちなので絶対はない。たとえば私の娘は感動していたが、息子にはあまり受けがよくなかった。
ジブリ作品の中の佳品は何度見ても面白い。逆に繰り返し見たくない作品は私にとっては駄作である。私は「ラピュタ」「トトロ」「耳を澄ませば」「紅の豚」など何度繰り返し見ただろう。残念ながら「ポニョ」は何度も見る気がしない。しかし、「コクリコ坂から」は私はDVDが発売されれば何度も繰り返し見て、何度も涙を流せるだろう。
というわけで、余裕のある方は2度見ることをお勧めする。

映画パンフレットの中で吾郎氏は意訳するとこう述べている。
「生まれて初めて死に物狂いで仕事をし、偉大な父親の書いたシナリオに恥じぬ作品にできるだろうかという不安とプレッシャーにもがき苦しんで暗中模索で製作を進めた。しかし製作最終盤で音声や音楽が入り映画が形をとりだすと、意外や自分の力量以上の、予想を上回る素晴らしい作品が姿を現した。自画自賛ではなく恵まれたスタッフと幸運のおかげであった。」と。
まったくそうかもしれない。彼は「ゲド戦記」では父親にネグレクトされ、完成間際には自分自身で自信喪失したり、完成後はあらゆる映画評にさんざんに罵られ、私の察するところ針のムシロだったと思う。
今回5年ぶりの再挑戦は立派に汚名を晴らした。

下:主人公の少女、海は毎日庭のポールに信号旗を揚げる。信号の意味は「安全な航海を祈る」。ただし劇中ではなんの説明もない。結局最後まで意味不明なのでいささか後味が悪い。


ネタばれにならないストーリーはココで見ていただきたい。
もし見に行くならそこで予習していったほうがいい。

時代設定は1963年の横浜。原作漫画は1980年代のものだから、あえて高度経済成長期に戻したもの。50年前、すなわち半世紀前。オリンピック前の喧騒、まだまだ社会が貧しい時代、大都市の景観は決して美しくはなかったはずだが、この映画ではとても素敵に見える。ジブリならではの背景の緻密さ美しさを十分に堪能できる。そして我々の世代には懐かしい風景や小道具が随所に出てくるのが楽しい。


舞台は横浜と明示されているので、昔の写真や映画などで考証しているはずである。半世紀前、横浜にはあんなに緑が多かったのだろうか?赤松の大木の並木も見られる。そう、土々呂のマツは過去のエントリで述べたが、昔の景観のツボはマツの大木であった。
ところがあの赤松並木は創作らしい。吾郎氏が考証の末、絵になりにくい山下町近辺の風景に悩んでいると白いヒゲのオジイサンが後ろに立ってアドバイスをくれたという。「赤松を入れろ」と。---When I find myself in times of trouble, Father Hayao comes to me,Speaking words of wisdom,"Red woods be."---という感じかな?(もちろんLet it beのメロディーで)
宮崎駿氏は子供のクレヨンセットの茶色は元来赤松の幹を塗るためのものだったと言う。それだけ昔の景観には赤松がありふれたものだったのである。赤松は郷愁をさそうポイントなのであった。ただしそれは関東地方のこと。九州では黒松。さらにはあの界隈に大木の赤松並木があったかどうかはぜんぜん根拠がないのである。

私はこの映画の時代の10年後に横浜の山下町、関内あたりを何度も歩いたが、すでにこの映画のようなレトロ感はなかった。いや、もともとなかったのかもしれないが。

ジブリ映画は音楽がいいことでは定評がある。宮崎駿監督の場合は久石譲が音楽を担当するが、他の監督の場合は異なる。今回は武部聡志。劇中多くの歌が流れる。
ちょうどあの時代の大ヒット「上を向いて歩こう」が繰り返し流れ時代感覚を表す。この映画オリジナルの手島葵の歌もなかなかいい。エンディングの「さよならの夏」は宮崎駿氏のたっての指示とか。1976年の同名のTVドラマ主題歌で森山良子が歌った。宮崎駿氏が「コクリコ坂」を構想したのは1980年代に遡るというから長年温めてきた作品である。道理で熟成されたシナリオの訳だ。当時からテーマ曲として「さよならの夏」を仮想していたという。
森山良子の歌唱はココで聞ける。堂々たる歌唱力。
映画中では手島葵の歌である。例のボソボソとした歌い方であるがこれはこれで悪くないのである。

下は現在Youtubeで聴ける映画中のオリジナル曲。いづれ削除されるだろうから早いうちにダウンロードしといたほうがいいかも。

あさごはんの歌

懐かしい街

紺色のうねりが

上の「紺色のうねりが」では歌/松崎海、となっているが、これは映画の主人公の少女の名前である。映画中では男子生徒中心の斉唱である。なおこの「海」という主人公は場面により友人たちから「メル」と呼ばれる。アニメのキャラクターはみな似たような顔をしているので一瞬別人か?とも思うが、メールはフランス語で海であるからどうやらニックネームらしい。それもなんの説明もないので混乱を招きかねない。

ココのブログでは「さよならの夏」を含めCD収録全曲を聴ける。



他に学生たちの合唱で「白い花のさく頃」が歌われる。話の流れからは、討論会がヒートアップした時、見回りの教員が来るのであるが、荒れた討論をカモフラージュするためリーダーの機転で合唱をする。ということのようだ。歌の選択がなぜこの歌なのかは不明。この場面もうっかりしているとつながりがわからない。メガネの意地悪そうな教員は伏線として一度前に出しておくべきだろう。観客には彼が校長なのか生徒指導教員なのか他の何なのか知る由もないのだ。
歌は昭和25年のナツメロ。ココで原曲が聴ける。

※「紺色のうねりが」については興味深い点が多いので次回エントリで詳しく記す。

※原作マンガについてはココで記している。

※美術・背景・カルチェラタンについてはココ

※2013年7月の「風立ちぬ」レビューはコチラ

下:宮崎氏が山荘で「なかよし」を読んだ思い出を書いたエッセーは「出発点」にある。若き日の思い出に満ちた大変面白いエッセー集である。現在英訳版も出ている。
「折り返し点」はその後に書かれた雑文を集めたもの。


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大武寺の仁王

ケーブルメディア・ワイワイのPR誌「wing」に大武寺に木像仁王があることが紹介されていたので行ってみた。
県内には仁王はあまりないので珍しい。大分の仁王のほとんどが石像なので仁王といえば石像、という先入観があるが、東大寺南大門の仁王をはじめ、元来は木造が主流だったはず。

大武寺はその名のとおり、延岡市大武町にある。昔からの集落内の路地の奥にあるのでナビがないとわかりずらいかもしれない。私の車のナビは安物なので何の表示もないが、娘のiphoneのGPSを見るとよくわかった。わたなべ酒屋を目印にするとわかりやすい。ついでに車もそこに置いていったほうがいいかもしれない。

下:せまい路地奥に山門。


大武寺は真言宗。医王山という山号が珍しい。立派な山門があり、中に仁王がいる。


下:クリックで拡大できます

上:目玉と、阿形の口が塗られているのがどんなんだか。
しかし、なかなか正統派の立派な仁王である。材はケヤキのようである。写真ではスケールがわからないが結構大きい。今これを作るとすると大変高価だろう。

そばに仁王の簡単な来歴を記す標柱が立っている。古くなってやや読みづらい。驚いたことにこの字は20年以上前に私が書いたもののようだ。ヘタクソな字のクセはまさしく私の物。まったく記憶にないが。

下:本堂はコンクリートで有り難味がない。


下:本堂横に小さな堂がある。



より大きな地図で 大武寺 を表示

「赤い鳥」 高森通夫の詩 2



高森通夫は宮崎中学校に進学している。現在の大宮高校。
兄の文男は最寄の延岡中学校である。
中学校時代にも「赤い鳥」への投稿を続ける。

宮崎市県立病院前谷口方(十三歳) 高森通夫

魚売り

雨がやんだね、
魚うりが行くね、
四かくな籠に、赤いきれのせてね。


宮崎市県立病院裏門前谷口方(十三歳) 高森通夫

夏の思ひ出 (佳作)

白くけむつてゐる、
人目の中で、
絵を描いたよ。
夕方に近い
河原の中だつたよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨あがり(特選)

雨あがり、しつとりと、
みなふくれてる感じだ。
なにもかも紫いろだ。
風がなく木々はみなしづかだ。
ぽとりと一直線に、
びわの葉がおちた。
夕暮れの日。


北原白秋はこの詩を大変ほめている。自著にこの詩と既出の「午後」を鑑賞作品として収録している。

宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

雨の朝(佳作)

雨の朝、乾物屋の屋根の鳩、
黒く見えるよ。
胸をふりく歩き出した。
二羽で仲よくならんだ。
瓦が白く光つて、
うろこのやうだ。
鳩は飛び去つた。
隣からうすい煙がのぼるよ。


宮崎県宮崎中学校一学年 高森通夫

日 向 (佳作)

近頃は秋だよ。
つめ切るに、かげは寒いよ。
日向でつめ切ると、
なつかしい思ひ出がうかぶよ、
地とりして遊んだころの。
つめは靴のそばに落るよ。
朝、
こじきの子のおとしたお菓子、
今は日向になつてゐる。
蟻がそれをはこばうとしてゐる。


日向はヒナタと読む。
単なるツメ切りという日常行為が立派に詩になっている。
ヒナタに落ちてアリが引くのは単なる菓子ではなく、コジキの子の落としたもの。それが詩に情を添えている。
今やコジキを見かけないのでなおさら気になる。
ナベカマを下げムシロを丸めて家族でさすらうコジキを見たことのある世代も私が最後だろう。

下:映画「秒速5cm」より


宮崎市宮崎中学校二年生 高森通夫

成績発表のあつた日

夕日の残つてゐる運動場、
ただこの運動場だけ、
夕日がのこつてゐるやうな、
さびしさ。
あさぎ色の空に、
五月の鯉が泳いでゐる。
舎生が運動してゐる。
白パンツ、青のユニホーム。
夕日は、夕日は、
つかれきつてゐる。
神武のうす暗い森は白つぽく、
成績発表のあつた日、
道場のそばに腰かけて、
僕は一人、
運動場をながめてゐる。


この詩を読むと80年の時代の隔たりを感じない。
宮崎中学校は今の大宮高校で、神宮の森のそばである。放課後の校庭の様子も変わらない。芳しくない成績に憂鬱になるのも今も昔も同じ。
風景の描写のみで彼の心象の憂鬱を的確に表現している。
13歳くらいでこれが書けるというのがすごい。

宮崎市上野町二丁日中尾方 高森通夫

古馬車

なつかしい古馬車。
町の裏通を古い馬車がいく。
灰色じみた馬車。
昔は赤かつたらしい
車台の一部も灰色じみて、
くもり日の町をだまつていく、



「赤い鳥」  高森通夫の詩 1


上:東郷町成願寺から見た山々

赤い鳥の投稿者で採用される常連は大勢いた。既述のように一人で50編も採用されるような、プロ並みの文学少年少女の一群がいたのである。

宮崎県では高森通夫が突出していた。昭和7,8,9年頃に12編ほどが「赤い鳥」に見える。小学校5年から中学2年にかけてである。その後、「赤い鳥」が廃刊されている。

高森通夫は宮崎県東臼杵郡東郷村(現日向市)出身。既述のように詩人である兄、高森文男を持ち、彼に影響された面も多いだろう。長じてからは医師となり延岡市で高森皮膚科医院を経営するかたわら歌人として活動した。

出身地の東郷は若山牧水の出身地として有名である。
高森の生家は資産家で裕福だった。だいたい詩人というものは裕福な家から出る。昔はなおさら。若山牧水の生家は医師。ちなみに現在の詩人とも言うべきシンガーソングライターの実家では、井上陽水は歯科医、中島みゆきは産婦人科医、松任谷由美は老舗呉服店、竹内まりやは町長で老舗温泉旅館、さだまさしは裕福な材木商。

下:昭和30年代の東郷、山陰(やまげ)の国道。このあたりに高森の実家「豊後屋」があった。


菅邦男教授は、高森通夫は宮崎県では稀有な存在であった、と述べておられる。そう聞けばいかな子供の作品といえども読みたくなるではないか。
土々呂小の作品もそうであるが、県内からの掲載作品は熱心な綴方教育教師の指導の下で学校から投稿されたものであるのに対し、高森は個人で「赤い鳥」を購読し、個人で投稿していた。当時「赤い鳥」は高価な雑誌であったから普通は田舎で子供が個人で購読するようなものではなかったらしい。

一般に小学校からの投稿作品が児童詩特有の素朴さ、類型性、土着的、生活感、方言の面白さ、などの傾向を持つのに対し、高森の作品にはそういうものでなく、天性の詩心を感じさせる突き抜けたものがある、というのが菅教授が「宮崎県では稀有な存在」といわれる訳のようだ。
そういわれれて読めば、なるほどそうである。

下:東郷町を流れる耳川。この川の川原でタコ揚げをしたものか。


情景を切り取って余情を感じさせる、といった彼の詩はちょっと田舎の児童の作品とは思えない、年次を追って紹介する。評価は「赤い鳥」の選考による。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校 尋五 高森通夫

あの人  (推奨>

私はあの人知つてます。
私が入院してる時、
一しよに入院してました。
私は退院したけれど、
まだまだ入院してました。
あの人、道を通るとき、
赤ちやんおぶつて通ります。
私を見ると笑ひます。
しづかにやさしく笑ひます。
ほほは赤くてふくらんで、
やさしい顔をしてゐます。


こんなテーマが詩になるの?というような作品である。彼は幼くして母を失っている。

宮崎県東臼杵郡東郷小学校尋六 高森通夫

午 後  (特選)

学校からかへつて、
ごはんをたべて出たよ。
かち粟をかじつて、おうかんに出たよ。
弟をつれて墓に行かうと思つて。
おうかんは白い、ずうつと白い。
午後、
向うで友だちが石ゆみ引いてゐる。
こちらむいて笑つた。


なんで墓に?母の墓か?
昔の舗装されていないホコリっぽい道。
遠くの友だちの笑い顔が印象深い。
2行目は不要だろう。

東郷小学校尋六 高森通夫

昼の月   (佳作>

学校からかへるとき
見たよ、
白い大きな月を。
山の木立のそばに
半分はきえて、
昼の月はうすいな。


宮崎県束臼杵郡東郷小学校 尋六 高森通夫

たこあげ

たこあげに
川へ行つたが、
風が
すくなくて
一度しか上らず、
西の空
赤くなつて、
人も馬も
赤かつた。
夕ぐれの
しづかな川原、
砂ふんで一人かへつた。
西の空はまだ赤い。


下:東郷町山陰の国道から冠山を望む。


山村の子供の綴り方  西臼杵上野


上:現在の高千穂町、上野近辺。

西臼杵郡上野村(かみの)は現在は高千穂町の一部であるが、1969年までは独立した村であった。今でこそ延岡から熊本に抜ける国道が改良され、延岡から1時間で着くが、昔は僻村中の僻村だったのではないだろうか。

上野小学校にも佐藤実という熱心な綴り方教師がいたようだ。
ここの子供らが遠足の弁当について書いている。
80年前の土々呂小の子供たちの遠足弁当は海苔巻きやユデタマゴの弁当でなかなかおいしそうであったが、はて上野は。

遠足でべんたうをたべたこと     上野小  3年  坂本邦雄
 
 かやのねもとで、べんたうをたべた。
 私と正男君と昇君でべんたうをたべた。昇君が
「かつひこ君、ここでくおだ」
と言つたので、私と正男君で、おゆなるとおもしろくないので、
「もういふな」
と言つた。昇君が、
「山の神様に、飯を上げておこだ」
と言つた。けれども、私と正男君は上げなかつた。舜君の飯はしら飯、正男君の飯もしら飯であつた。私のだけが、まぜ飯であつた。正男君のさいは、いわし一ぴきであつた。昇君のさいは、こんこのさいであつた。正男君も山の神様に飯を半分上げたから、私も半分上げた。けれども、ちつともくはつさんから、「さいがないからだらう」といつて、みそづけを上げた。けれどもくはつさんから、「もう上げんばい」と言つたら、正男君と昇君が笑つた。正男君の笑ふ時には、小ばなのもとに、ふくれたものが立つ。昇君の飯のくふやつがぬうなつたから、上げて居た飯を取つてくつた。正男君もとつてくつた。
 あたりに、人の話すこゑが聞えてくる。
 向ふのもみぢが、松の木を後にしてゐる。たきの水も白くて、ざあざあとおててゐる。白いぶくがたつてゐる。くろばるの杉も見える。下のみちに、しもばしらが立つてゐる。それが日にてらされて、とけて、じるくなつてゐる。
じやうりをふんで来たものは、こまつただらう。もみぢの中でも、一番赤くなつてゐたのは、たつが岩やのこつちのであつた。


※おゆなる

山村の子供の綴り方  宇納間

土々呂、門川は漁村であるが、大正時代には鉄道が通ったのでまだしも文明の流入は早い。田舎とはいえ宮崎県では綴り方教育で先進的な実績を残した。
さて、山間部ではどうだったんだろう。80年前の宮崎県の山間部といえばそうとう不便な僻地であったはずだが、立派な成果を上げている。結局は教員の熱意次第。
これも菅邦男氏「綴方教育と赤い鳥」から引用。

まずは門川町の隣、北郷村(現、三郷町北郷区)から。北郷は現在では道路改良で門川から車で1時間もかからないが、昔は孤立した山村だったはずだ。昔から宇納間地蔵尊で有名である。
役場のあった中心部から1kmくらいの所に北郷小があり、下の作品の少女はさらに5kmほどはなれた入下分校の生徒。
宇納間地蔵の祭りに母に連れて行ってもらったことを書いている。彼女の家は分校のある国道沿いからさらに3kmほど谷筋を分け入った轟内谷(土々呂内谷)であるから、家から宇納間地蔵まで8kmを歩いていったことになる。

下:五十鈴川が北郷村を東西に貫く。


おぢぞうさん

田村ハツ子   北郷尋常小学校 入下分校2年  前田彦太郎先生指導

 この間おかあさんと おぢぞうさんまゐりに行きました。かずちやんとこに行た時にはかずちやんどもはもう行てしもておりました。それで 私たちはいそぎました。けれどもおひつかんでした。その日はふるの正月二十四日でした。村に行たおりにはまだ人がいきよりなさいました。そしてくみやいによつてみよちやんがたびをかりなさいました。その時くみやいには高いバスがとまつてゐました。私は「あのバスにのりたいなあ。」と思ひました。そしておかあさんに「自動車にのつていこや」といつたらおかあさんの「のるといんま三十銭やらんならんぞ。」といひなさいましたからのりませんでした。
 うなまにいきついたら人がたくさんゐました。私はそれを見て「あらあんげ人が集つとるが足にのぼられはせんどかい」と思ひました。私はおかあさんのたもとにとづいて人をせりわけせりわけしてあるきました。人が私の足にのぼつたりしていたいでした。にんぎやうくわしやあそびどうぐやゑ本やよきやなたやはさみや色々なものがありました。それからおぢぞうさんにまゐりました。上の方に上つて見るとおそろしいでした。おかあさんはかねをかんかんとたたいておがみなさいました。それから下へ下りました。おじるおりにはおもしろくて私はどんく下りました。
おじつて私はおぢぞうさんのおもちやをかつてもらひました。それから一寸ばうしのおるとこに行つて見ました。一寸ばうしは小さくてあたまが大きくてあたまは、はいからにしてせがひくくてこえてゐました。それでもみよちやんが泣くからいつときしか見てゐませんでした。それから外へ出た時にはぜには十銭か十五銭かでした。それからおかあさんとうなまのすえをばさんとこに行きました。そしてばんになつてくわつどう見にいきました。一ばんあとがよいでした。男の人と女の人がだんを下つて来よりました。そこには大きな木があつて その前に人が一人か二人かしんでゐました。その男の人はおそろしくてめんめ方ににげていにました。女の人は木になんかかつて下を見たらおずしてこしぬけがして逃げていきをした。そしたらあたまの毛の長いからだがまがつた男の人がとぐちをあけて女の人を出しました。そしたらその人が「何もおらんが」といつてさがしました。
 そのばん私はすえをばさんとこにとまりました。さうして朝になりました。私とおかあさんはみせのにつきに行つていつときあそんでいにました。いぬる道でおかあさんはやくばによりなさいました。やくばから自動車にのつてかへりました。その日は私はけつせきしました。


※ふるの----旧の
※おじる----おりる、のことか。
※なんかかって

「赤い鳥」 と門川

赤い鳥には門川の草川小からも5編ほど掲載されている。
昭和6年前後、ほぼ木村寿が土々呂にいた頃、草川小には綴り方教育に取り組む教師グループがあった。校長も協力的であったというから、孤軍奮闘の木村の場合と異なっている。

下:昔の草川小。


柴田清一、加藤亮一、平田宗俊の3名の教員を中心として「草川文苑」という学校文集があった。つまり学校全体としての取り組みだった。土々呂も当時は東臼杵郡伊福形村であるから田舎であったが、門川はさらに田舎である。当時の宮崎県では東臼杵の郡部、山間部で先進的な事例が見られるというのも面白い。

「赤い鳥」からまず、詩を1編。

草川小学校   尋常四年   金丸 実 (昭和6年)
 
しづかな夜(佳作)

しんとした夜、
まつくらな夜、
たれも通らぬ
まよなかに、
お父さんのさけのむ
とうふかひに、
まあるいまあるい
あかぜにを
五つもつていつたんだ。


詩の力によって明確なイメージを読み手の脳内に醸成させてインパクトを与える、という点から見るとほとんどプロ並み。北原白秋なみ、と思うのは私だけか。絵心のある人ならその情景を絵に描きたくなる。1銭と言わずに「あかぜに」というところもいい。当時の1銭は昭和30年代、40年代の10円と同じくらいのイメージらしい。大きさ色合いも同じ。
昭和レトロ世代は先刻承知であるが、若い世代のために。昔、豆腐を買いにいくには容器を持参した。ノビタは豆腐をナベから落とさぬよう用心して歩いている。実はノビタ昭和35年の生まれ。


木村の土々呂小は低学年だったが、草川では高学年の作文がある。牛の出産をめぐる家庭の様子を描く。昭和6年。

牛の子    草川小学校 尋常6年 松井シズエ

 学校の門を出た。やがておやすをばさんの家のきどへ来た。私とみんなとさようならをして、たんぼ道を通ってすこしさかを上がって行くと、家のおばあさんがきどへ出てゐて、「だい、よい、だい、よい。」と向こうの方をむいて、しきりにさけんでゐられた。
私は何ごとかと思つて、「なんの。」と言ふと、おばあさんは私の言つた言葉をほつたらかしておいて「あら、だいをぢさんぢやろうが。」と指さして言はれた。おばあさんは目がよく見えない上に、だいをぢさんのをられるところは遠いので、はつきり、だいをぢさんといふことはわからない。私はだいをぢさんと言ふことを知らせておいて家へかへつた。
家へかへつて見ると、思ひがけないことにおどろいた。今まで腹が大きかつた牛が、急に悪くなつてゐた。家には守をぢさんや、ほかの人たちが、二三人きてをられた。
すぐに本をおろしておいて、牛小屋にいつた。牛は苦しさうにねてゐた。さうして、苦しいいきをして、目をつむつたり、あいたりしてゐる。そのやうすはいかにもかはいさうである。お父さんが、「よんべ、まるべにひつぱつていたつちやが、そしたな、橋がぐわたつッたが、ありたまがつて、とび上つたつちやが、ちりが、おけたつちやねが知らんわ。」と心配さうな顔をして言はれた。
やがて、おばあさんが、だいをぢさんをつれてかへつてこられた。だいをぢさんはきどの方から、「どんがらこつかい。」と言ひながらこられた。おばあさんは、牛小屋をのぞいて、心配さうな顔で、「おりやも、知らんどへ。見ちやをらん。」といつて向うの方へいかれた。やがてお父さんが、「きゆうひよかつと、ちゝが大こななつたつちやが。」といはれた。ちゝが大きくなると子がうまれるのです。私は子をうむとき、死にはしないかと心配して、いつまでも家へをつた。するとお父さんが、「わりや、はよ、子守にいかんか。いま、いも植ゑぢやから、せわしとど。」と言はれたので、ほんたうだと思つて出かけた。
おきまをばさんの家へいつて見ると、だれもゐなかつた。どこもこゝもさがしてまはつたが、をらない。私は牛が心配になるやら、書方を書かうと思つてかへり出した。かへるとき、ちようど、あきのさんが、私の家へあそびにいく途中でした。それでいつしよにかへつた。
かへつて見ると、家には大ぜいの人たちがきてゐなさいました。牛を買ふぱくりようさんもきてゐて牛を見てやつてゐなさつた。私がいつてみると、牛が子を生みかけてゐた。おばあさんが私に、「わんだ、見るもんじやねど。」と言はれたので、足をあらつて書方かきにとりかゝつた。やがてするととつぜん、ぱくりようさんが、「あゝ、うなめじやうなめじや」とさけばれた。それといつしよに、をとなの人の口から「うなめじや、うなめじや。」「酒を一しよ、とらんならんど。」といふこゑがきこえた。私はうれしくて、むねがをどつた。


※まるべ

木村寿の綴方教育 


上:昭和初期の土々呂小学校。

今では小学校に30人学級が導入されはじめている。すなわち40人近くの生徒をきめ細かく面倒を見切れない、ということ。まったくそうだろう。20人だって大変だ。

私が子供の頃はクラスは40人台だった。昔の子供は素直だからそれでも騒いだり、私語をしたりはなかった。今とは時代がちがう。現代は国民的にタガがゆるんでいる時代だ。

ところが、昭和ヒトケタ時代の木村寿教諭のクラスは男子ばかり50数名。さらにはその中に2名の知恵遅れ児童がいたという。現在そんな学級を担任させられるとしたらかなり腕の立つ教師でも授業はなりたたないだろう。木村はそれをきびしく統率して、高い学力をつけさせつつ、週に1度は校外の山や浜に遊びに連れていったりして子供に慕われた、というから、今の基準でいえばスーパー教師である。

いや、当時の基準でも立派にそうである。
菅教授の「綴方教育と赤い鳥」から引っ張るとこうだ。

岡富小時代、三十数名の職員の中でも木村の出勤は断然早かった。それも8kmの道を徒歩での出勤である。子供の来る前に教室を掃除し生徒の机を磨き上げ、登校してくる子供に「おはよう」と呼びかける。

常に綴方原稿や文集などを大きな風呂敷包みに持ち歩き、一刻のヒマを惜しんで仕事をしていた。ガリ版だけでも猛烈な仕事量である。もちろん家に持ち帰っての仕事も多かったはずだ。
だから、職員室で雑談したり碁を打ったりということもない。酒、タバコはいっさいやらず、同僚とスポーツに興じることもない。つきあいの悪い変なヤツという見方もあっただろう。
子供にもきびしいが、自分にはその数倍きびしく、サボる教師、だらしない教師、すじを通さない校長には時にずけずけと批判したという。
膨大な量のガリ版文集を発行しているが、なんとその費用は自己負担。現在のように学校の資材を使い放題という時代ではなかったのだろう。

木村は土々呂小時代を振り返り「日曜もなにもない血みどろの3年間」と言っている。それがゆえに彼の文集「光」は全国的な評価を得て「赤い鳥」にも掲載されたのである。もちろん、綴方バカとそしりを受けぬよう他の教科指導にも倍する力を入れ、担任クラスの学力も高かった。

今、それを読む我々は「素晴らしい教師の鑑だ!」と思うのだが。しかし。彼は周囲から賞賛され評価されたのだろうか?
想像はつくが、こんな場合、周囲の同僚はマネをして彼の境地に達するように努力をするより、自分の無為を棚に上げ、ねたみ、煙たく思う傾向があるのではないか? それが凡人の常である。
なにより、木村の上司の評価が理不尽なものであった。

木村は大正11年(1922年)から15年間に北郷小、細島小、北川小、南方小、岡富小、延岡小、土々呂小、門川小、延岡小、上南方小となんと10校も転勤している。土々呂の3年以外ではほとんど1年。異常である。
どうやら「危険分子」とされて、次々と厄介払いされていたようなのである。ダメ教員、問題教師が1,2年で厄介払いされて転任することは現在でもある。
ダメな管理職は部下の能力を評価できない。あるいは優秀な部下を警戒する。さらには当時は綴方教育には左翼的な、あるいはリベラルな思想の強い影響がある、と思われていたのが主因である。「綴方教師」がすぐに配転される、というのはなにも延岡に限らず全国的な傾向だったらしい。

そういう仕打ちに木村自身悔しい思いをしていたようだ。特に土々呂では1年から3年間クラスを持ち上がり、ようやく素晴らしい成果が出たところである。その子供たちが高学年になって大輪の花を咲かせるのを楽しみにしていたところで、またまた転任である。失望と落胆は大きかった。木村は「自分の血のにじむような苦闘が認められないのは淋しい」ともらしていたようである。

木村が門川に転任になった翌年、「赤い鳥」が廃刊になっている。時局は戦争に突き進んでいく。
ようやく昭和13年になって、木村は土々呂小の実績によって文部省初等教育奨励会から表彰を受けた。
戦後も木村は教壇に立ち続け、組合活動も熱心に取り組んだ。
退職後は椎葉村教育長を勤めた。

私は土々呂小のすぐそばに生まれ土々呂小、土々呂中を出たが、木村のことを聞いたことはない。近年土々呂小校門の看板により、名前は知ったものの、今回菅教授の「綴方教育と赤い鳥」によって遅まきながら認識した次第である。木村の土々呂小3年間の苦闘を土々呂の歴史に残る「光」として記憶に留めていきたい。土々呂の「光」を歴史の闇から掘り起こしてくれた菅邦男教授の仕事にも感謝したい。



土々呂の子供 トンビと船下ろし

引き続き土々呂小の綴方である。

木村教諭はいろいろな形式の綴り方を試みている。
詩の形式の綴り方もそのひとつ。
昭和8年に「赤い鳥」に掲載された作品から。

つばき    尋常1年  高見茂夫

うちの、うへには、
つばきが、いっぱいさいてゐる。
はなをとりにいった。
とつてすうた。
あまいかつた。
せつぺせつぺすうた。


※せっぺ---たくさん


なのはな   尋常2年  高橋忠男

なのはな、
はたけにさいたよ。
なのはなの、ねきは、
なしの木があるよ。
なしのはなめが、ふくれてゐる。
なのはなが、むかうにもさいてゐる。


にはとり  尋常1年   秋山栄次

にはとり
こけころとなくよ
大きなこへで
こけくわくわ
こけくわくわ
たまごが一つ
ころげてゐる。


~よ。という文末の詠嘆が北原白秋風である。当時はこれが流行っていたのではないだろうか。「からたちの花が咲いたよ~ 白い白い花だよ~」を思い出すのである。
旧仮名遣いで書かれた詩は素朴でもなぜかしらありがたい気がする。秋山君の「にはとり」では特にそうだ。「こけくわくわ」も現代ではちょっと思いつかないオノマトペである。

創作のお話も書かせている。低学年児に創作とはどうなんだろう、と思うが、意外や素敵な作品がある。とても7歳の子供のものとは思えない。高橋君、本当に君が書いたの?

とんびと子供
尋常1年 高橋敏郎

いわしがたくさんとれて、いわしがはまにほしてありました。とんびが北の方からとんできました。さかながぴかんぴかん光つてゐたからほしいと思ひました。とんびはさかなの上にきて、ぴいひよろ、ぴいひよろ、となきました。
子供がとんびを見ました。とんびはひもじくてたまりませんから、又、ぴいひよろ、と鳴きました。そしてわをかいて見せました。子供が「とんびが字をかきよるが」といつてよろこびました。とんびは、子供があつちにいくといいじやがと思ひました。とんびはわをかいて鳴きながら、ぴいひよろ、ぴいひよろ、と、首をうごかして、鳴きました。とんびは、なんぼでもわをかいて鳴きました。子供はとんびが、ひもじいのだらうと思ひました。それでも子供は、さかなのばんをせんならんとぢやから、あつちに行くことはできません。とんびがひもじいだらうと思つて、ねむつたふりをしました。そしたらとんびはおりてきて、一番いわしのわるいのを一ぴき取つて上りました。子供が上を見たら、とんびは、うれしさうに、ぴいひよろ、と鳴いて、北の方へまつていきました.


昔はイワシが大量に取れていた。生では消費しきれないから多くは原料用、飼料用に一旦ゆでて乾燥イワシにしていた。浜にはたくさんのヨシズの上にイワシが干され、トンビやカラスやネコに盗られないように子供たちが石を持って番をさせられた。収穫前の田んぼでもそうだった。高橋君もイワシの番をしていたものだろう。

下:現在の魚干し場。ここは埋立地。昔は浜だった。


下:現在はチリメンが干されている。


下:土々呂漁協近辺は昔からトンビの集結場所。


土々呂は漁港で造船所もある。漁船の新造の時には「船下ろし」がある。進水式である。家の棟上と同じでモチまきをする。我々が子供時分には船下ろしや棟上のモチまきは大行事で大勢の人が詰めかけ死に物狂いでモチを奪い合ったものである。

漁船の場合、漁協のラウドスピーカーが軍艦マーチをガンガン鳴らす間に、大漁旗で満艦飾の新造船が港をぐるぐるまわる。やがて漁協前の岸壁に船が着き、船主家族や親類が船に乗り込み岸壁の人々にモチをまき始める。要領のいい人は漁業用の大きなタモを持ってきている。時々、特別に大きなハマモチを投げると大騒ぎで奪い合い。楽しい思い出だが、私も下の小泉君のようにあまり得意ではなかった。小泉君は2年だがまだカタカナ書き。これは通常の綴り方。

フナオロシ 2年 小泉光明

私ハ 日ヨウ日 二、ハマヘ モチヒラヒ ニ イキマシタ。フネ ガ アタラシイク デキマシタ。フネ ニ ハタ ヲ タテマシタ。アカヤラ アヲヤラ シマス。モチヒラフ 子ドモガ、フネ ニ ノツタリ ヲレタリ シヨツタカラ、フネツクル ダイクサン カラ ノツタリ ヲレタリ スルナラ、モウ モチ ハ マカセンゾウト シカラレマシタ。ソレカラ、モウ ノツタリ ヲレタリ セズ ニ、フネ ニ ノツテ スワツテ ヰマシタ。フネオロシ ガ ハジマリ マシタ。ミンナガ フネ ヲオシテ、フネ ヲ エイヤンドツトコ、エイヤンドツトコ ト、フネヲオロシマシタ。フネガオリマシタラ、水ガドブントアガリマシタ。ソシテウミノ 中ニ ジャブト ハイツテイキマシタ。人ガ ワアトイヒマシタ。ウミ ニ オリマシタ。
モチマキ ガアリマシタ。ソシテ私ガ、モチヲメエタトコロニイキマシタラ、コンダ私ガオツタトコロニマキマシタ。人ガヒロヒマシタ。又モトントコロニ、イキマシタラ、モウモチマキハヤミマシタ。
ソシテ私ハモチハ一ツモヒラヒマセンデシタ。
フネ ハ ウカツテウゴイテヰマス。ハタガウミ ニ ウツツテウツクシデス。ソシテ フネ ハ オキニ イキマシタ。

ただし、小泉君が体験した頃は土々呂には現在のような岸壁はなかったのでどうだろうか。さらに動力船であったかどうかもわからない。造船所は桶河あたりにあったはずである。

下:私の子供時代のおぼろな記憶をたどって描いた。色鮮やかな大漁旗、パチンコ屋のような威勢のいい軍艦マーチでモチひらいの人々の気分はいやがうえにも盛り上がる。


下:昭和30年代の土々呂漁港。妙見の船着場。漁船のデザインも時代とともに大きく変わったはずである。この写真の頃は純木造だったが今ではFRP船が主流。

下:同じ場所で現在の漁船群

土々呂の子供 ジョログモとカバン

調べた綴方の中には身の回りの自然や動物を書いたものもある。昔の子供にとって虫は親しい友達、玩具であった。カブトムシやクワガタを好きな子供もいないではないが、一般に今の子供はムシをいやがる、ないしは怖がることが多い。なげかわしいことだ。

虫のなかでもクモは今の子供にはさらに縁遠い。既述のように我々の子供時代まではジョロコブは男子の遊びの重要アイテムだった。関東ではホンチというハエトリグモで遊んだ。
ジョロコブ(ジョロウコブ、ジョロウグモ)というものの実際はコガネグモのこと。ホンチなどというチンケなクモと違ってジョロコブは大きくて美しい。さし渡し7~8cmはある。


じよろぐものす作り   尋常三年 花岡友美

木の間に作る。

木の間に作る時一つの枝にとまつてねばを流します。いくらでも流します。風が吹いて来てそのねばを向ふの枝にもつて行きます。向ふの枝につかないで、空にすうくしてゐる時もあります。そのねばも一つの枝にひつつくと、そのねばの上をだんだんたずつて、又まん中ごろからねばを流します。その流したねばが又あつちの枝にひつついて、そのねばをたどつていきます。どんくらゐかかるか知りませんが、のちにはりつぱに作り上げます。作り上げるとなかなかりつぱです。くもはうれしいやうに、あつち行き二つち行きしてゐます。
くものねばはなかなかぢやうぶです。ちつとぐらいひつぱつてもきれません。くものねばはひくい所にもはりますが高い所の木のかげなどに作ります。

出来土がつたくものす。

くものすが出来るとふくろをかぶります。そしてその中にはいつてゐます。じよろぐもは、ふくろは持つてゐません
がすのまん中に白いものをはつて、そのまん中にすわります。
くもは、はいなどをまかせやうと思つてなげるとすぐにげて、ふくろの中にかくれます。
じよろぐもは、すぐはしつてきてくるくるとまきます。さうして又前の所にいつて、じつとしてすわつてゐます。すをうごかすと、ちょつと足をうごかしますが、じつとして、すをぴょんぴょんうごかします。
じよろぐもは、すのまん中にをらずに、枝の所におる時があります。僕が此の前見てゐた時、雀からくはれました。
くはれんやうにかくれてゐるのでせう。大きなのは、すぐ見つかるから、早くたべられます。
じよろぐものねばは美しい時があります。雨がふつた時は、つゆがいつぱいぶら下つてゐます。雨のふつた後でお日さんが出ると、ねばがぴかぴか光つていいのです。



またまた染物屋の吉井君が登場する。彼はクラスの全員のカバンを調査している。昭和10年の雑誌「工程」に取り上げられ、児童の綴方を著名文学者が評価する、という趣向であった。吉井君の作品は恐れ多くも井伏鱒二が担当した。

かばん調べ
尋常三年 吉井己義
僕は僕たちの生とのかばんを調べました。
らんどせるを持つてゐる人は二十六人をります。らんどせるの色は土色と黒色があります。土色は二十四人持つてゐます。黒色を持つてゐる人はたつた二人です。黒色のとは、ねだんが高いからすくないのです。
らんどせるは、牛や馬のかはで作つてあります。馬のかははあつくて牛のかははうすいが、牛のかはの方がつよいといひます。そのほか、たんもんがみで作つてあるのがあります。たんもんがみの上にきれをはつてゐるのです。
らんどせるのねだんは、一円二十銭から二円五十銭ぐらひまでです。僕は調べて見てびっくりしました。あんな高いねだんのものを二十四人も持つてゐるのだがと思つたからです。僕は一円から六十銭ぐらひだと思つてゐたからです。
だれかららんどせるをかつても二たかと調べたら、お父さんから買つてもらつた人は八人おります。ねえさんからかつてもらつた人は三人おります。このねえさんたちは、遠い所にはたらきに行つておくつてくれたのです。お母さんからかつてもらつた人は五人です。そして外の人は、しんるゐや、おみやげにもらつた人がをるのです。
僕たちのせきのらんどせるは、どこから来たかといふと、延岡で買つてもらつた人が多くて十四人ゐます。延岡は町ですから、やすいと思つて買ひに行つたのでせう。稲田君は、あぶらつから買つておくつてもらひました。お父さんがはたらきに行つてゐたのです。土々呂で買つた人もおります。大阪から買つてもらつた人が一人おりました。みんながほんとうか、とびっくりしました。大阪のらんどせるもおなじです。そしたらのぽる君が「おれのとは岡山」といひました。みんなは岡山はどこか知らんからぽかつとしてゐました。秋山君は「おりのとは東京からおくつてもらつた」とみんなにをしへてくれました。僕はせきのらんどせるが、あんなに遠い所から来てゐるかとびっくりしました。
本人れに、僕たちのせきのものはざつのうを持つてゐます。僕もざつのうです。ざつのうの色は水色と黒色です。
黒色のざつのうを持つてゐる人は三人です。水色のざつのうを持つてゐる人は十八人です。僕のざつのうは水色のです。
ねだんは三十五銭から五十銭までです。僕のざつのうは三十五銭でした。一年の時から持つてゐます。まだ三年ごろまでは、つかはれます。ざつのうは大がい土々呂の金井や兵どうでかひます。
又本をふろしきに入れてくる人が三人あります。ふろしきに入れてくる人は、手で持つてこなければなりませんからさむいでせう。
僕は三つの内でどれが一番いいかとかんがへます。僕は一年の時にはらんどせるがほしくてたまりませんでした。
はしる時などは、手をいくらふつても、がたがたいはずにはしります。ざつのうは手でもたないとはしることが出来ません。それでも今は、ざつのうがいいと思つてゐます。僕のざつのうは三十五銭ですが一年の時かつてもらつて、まだ三年ごろまではつかはれます。らんどせるはもうわるくなつてゐます。かけるところがきれたりしてゐます。らんどせるは高くてもう上のせきになると、みんなざつのうばかりです。
昔の人は、本を何に入れてもつて行つたかといふと、みんなふろしきにつつんで持つて行つたといふことです。本をひもでむすんでもつて行つた人もおるさうです。


※せき---クラス、学年のことのようだ。
※たんもんがみ---反物紙、今で言うボール紙。

大変よく調べている。形態、材質、価格、買った所、買ってくれた人、などよく行き届いている。3年生の綴方としては出来すぎと言っていいくらいではないだろうか。下手すると今の大学生でもこれより下手なレポートを書きかねない。
現在の小学生はほとんどランドセルで差がないが、このころは如実に貧富の差が現れている。吉井君は安い雑嚢であるがめげていない。さすがお利口な子だ。当時の小学校の一面がしのべる。こんな調査は大人や教師でもしなかっただろう。

ところが肝心の井伏鱒二は採点は甲としつつもなぜか評論を避けているのである。当時は生活綴方が主流だから、こんなレポートのような作品に戸惑ったのかもしれない。そのかわり井伏は以前に延岡を訪れた記憶から、風俗の変遷に驚いている。すなわちあの僻遠の地、土々呂でも今やランドセルがあるのかと。

下:土々呂小卒業生、昭和2年と言うキャプションがある。着物がほとんどだ。残念ながらカバンは写っていない。


下:昭和14年。全員が洋服を着ている。たかだか10年でこんなに変化するのか?上の写真の年代が間違っている可能性もある。


下:昭和13年。全員セーラー服。これは高等科だろうか。


土々呂の子供  調べた綴方

「ひかり」や「光」には80年前の土々呂の様子がうかがえる作文が多い。子供の目から見ているので、食い足りないところがあるが、大人はこんなことを文章にはあまり書かないだろうし、日記などで書いたとしてもどこかに死蔵されている。だから土々呂の昔を知るうえではいい資料である。

木村教諭は日常を綴る作文にとどまらず、いろんなものを観察したり、調査したりしてそれをまとめることも要求している。
木村学級の子供たちは木村教諭に鍛えられ、どんどんと作文が上手になってくる。クラスは50名以上いたが、やはり上達の早い子とそうでない子は当然出てくる。例の染物屋の吉井君がクラス一番の優等生だったようだ。彼の作品は菅教授の「生活綴り方と赤い鳥」には何度も取り上げられている。1年生の3学期の時点でこんなに長い土々呂桟橋通のレポートを書いている。当時はカタカナ先習でひらがなは2年からであるが、すでにひらがなと漢字を用いている。


さんばしどほり   一年  吉井己男

さんばし は ととろんうちぢや 一ばん にぎやかです。あたまつみや もあります。それから かなやごふくてん や ひよどごふくてん も あります。まるきばす も あります。おくわしや も あるし たばこやも あるし、りんりきを 入れる こやもあるし、せいまいしよもあつて、いつも米 を ついて ゐます。
私と まゆみくん と たばこ を かいにいつたときです。あたまつみや には、人 が 五六人はいつて なに か がやがや ゆて ゐます。がらすしようじ の にきに いくと、私 と まゆみくん の かほがうつりました。わらひました。あたまつみや の 人 が わらひました。かなやごふくてん の まへ には、をんなの子が きる すかあと や 小さい子供 が かぶる ぼうし や、たんもん やら きもの の きれが 出してあります。ひよど の はう が 大きい が、ここ が にぎやかです。をんな の 人 が かひよります。まちつと くる と お金もち に なるでせう。かなもんや に 出してある はた は いさましく かぜにふかれて ゐました。をんなの人 は わわ さわいで 手 を 出して 見せてください、その きれ は きもの に なりますかと いつてゐます。
まるきばすごや に いこや つて いつてみたら、一だいは、こや に いつてゐました。一だい は のべよか に いちよる のでせう。こや の 中から、一人 の こもり が うた を うたひながら あそんでゐます。こやんなか は あぶら が ながれて によいます。まるきばす は ととろん とで  のべよか に人を つんでいきます。
田中 の おくわしや を 見ると、おいしいやうかんが ひかつてゐます。まんじゆう が つんであります。それから いちんだまや あめや いちんだま の きなこのやうなもの が つけてあります。人 がすとはいつて いつて「おくわしをください」といひました。
「どのおくわしですか」と いひました。「あめをください」「なんせんですか」と いひました。「五せんがた」と いつて かつてかへりました。さかなうる人ぢやつたが、きつと、予供に わけてやります。
たばこや は 田中くんとこです。をとこの人 が たばこかひ に やつてきました。田中くんの をばさん が、でてきて たばこ を 一つ やりました。私たちも一つ かひました。たばこ を こて 叉いきました。りんりきしや を 入れるとこ は からつぷです。せいまいしよ は きかい で かたかた おと を たてます。せいまいしよ の 人 は いそがしいです。いつぺ かぶつて 米をあげたり いれたりします。ぬか が ばらばら とんでゐます。
そして まゆみくん が もうおそくなるから かへる と いつたので わたくし も かへりました。


いくつか現在では意味のとりづらい単語もあるが、読者の想像力に委ねる。

店舗では、「まるきバス」とはバス会社のようである。「かなや呉服店」「兵頭呉服店」は私は知らない。私の子供時分には桟橋どおりには「のもと洋品店」「花岡洋品店」「岡村洋品店」は記憶にある。「田中菓子屋」「田中たばこ店」も知らない。「あたまつみや」はどこだろう?「山田理髪店」だろうか。精米所は宮田精米所だろう。

下:現在の桟橋通り。率直に言ってうらさびれている。それは全国どこの地方商店街も同じ。昭和40年くらいまではたいへん栄えていた。車の普及以前までは土々呂は自転車や徒歩圏内で独立した十分な商圏を持っていた。昔はこの道を200mほど先に行ったところに桟橋があった。


谷君も優等生の一人のようだ。土々呂の谷といったら谷鋳物屋(後年は谷精機)だろうか。谷君は土々呂港に出いりする船の様子を書いている。

みなと
2年 谷勇一

みなとには きせんがまい日 はいつてきます。あさも ひるもばんもはいつてきます。いつてくるときとうだいの こつちで、けむりを むくむく出して みなとに いつてきます。いぬるときは、あすこんとこで、くるつとまわつて、その くるつとまわるときに、こつちから 見てゐると、ひつくりかやるごとします。そして でていきます。
いわしとるふねが、いんできよりました。ぎよさんとつてをるときは、えいやえいや、と、みんなに、きこゆるごつ ゆて いんできます。
きかいせんは いつつもとんとん と いつて、いきます。ほまいせんは 出るときにや ほをおろさんが、ほまいせんが ほを おろしながら、いんできよりました。ひるごろは、ふねは あんまり おりません。私は とをつめて、べんきよ しよりましたら、又えいやえいや つ こゑが しだしました。そとへ でて見ました。いわ
しをたくさん といつてきました。いちばのふえが ぷうと、げんきだして なりました。いわしを かついでさろく人が、一りいんできました。いちばのはうへ はしつていきました。まがりかどで わからんごと なりました。
ひるのきせんが みなとに はいつてきました。こんども、けむりを むくむく出して きました。


下:現在の土々呂港。現在は純漁港である。かつては活発な商港でもあった。


花岡君の作品もよく取り上げられる。彼はお祭りの露店のおもちゃ屋を観察している。これは3年生の時なので漢字が多くなってきた。

おもちやを売つてゐる店          尋三      花岡友美

僕の家のとなりにかまへてゐます。僕の家は神様の近くです.神様のところからおりて来るとすぐ見えます。
だいを四方に置いて板をおいて、その上にきれをしいてゐます。自どう車もき車もあります。刀もあればひかうきもあります。小さい子供のよろこぶやうな物ばかりです。
店の人はおもちやを色々いごかしてみます。さうすると子供はほしがります。おもちやをいぢる子供もゐます.。店の牛をぐつと見てゐるのや、ほしいやうなかほもしてゐます。内のいもうとはおもちや屋が近いので、うれしいかほして行きます。
お客さんは子供たちです。一銭持つて来て、十銭や五銭のひかうき何やをくんないといひます。店屋の人は「これは一銭ではかはれない」といふと、わけがわからないものだから、「くんないくんない」といひます。
この店はなかなかうれました。土々呂にはないもんだからみんなあつまつてきます。この店屋の人は侮年来るもんだから、知つておるからよく売れます。自どう車をうごかしたりすると、僕たちもほしくなります。




土々呂の子供 遠足-3

前回、前々回から引き続き、昭和9年の土々呂小、木村寿教諭の2年生男子クラスの遠足である。ここから帰路の描写となる。

遠足のルートがわかる別の地図があった。前回掲載の国土地理院(陸軍測地部)の地図から別に起こした地図のようでいささか正確さ、緻密さに欠ける。しかし面白いのでご紹介する。土々呂中学校ができているので昭和20年代のものだろう。平原から浜にかけての10号線バイパスあたりは浜川の川幅が広く一面の湿地帯だったようだ。旭化成が土々呂港からのトラックを通すために薬品工場への道路を建設した時、浜川沿いではなく緑ヶ丘を南北に貫通させたのもそのせいだろう。その道はこの地図ではまだできてない。

この地図でも平原の延岡競馬場がまだ存在する。この競馬場の写真は左のリンク先にあるので見ていただきたい。またココにも延岡競馬場の歴史や面白い航空写真がある。ほんの草競馬かと思っていたら1000mの走路を持つ本格的なものである。写真ではあのあたりは一面広々としていて、現在のバイパス沿いの賑わいからは想像がつかない。(クリック拡大)

上:子供たちは往路も復路も橋を重要な通過点として記述している。私も子供の頃、この道をバスで延岡市内に行くときには橋をいくつ通過すれば塩浜に着く、と目印にしていた。永田橋は現在のAコープ一ヶ岡店あたりにあった橋である。現在では川そのものが暗渠になっているので存在しない。地図では火葬場はまだ塩浜(夏井)にある。


上:緑ヶ丘の平和橋からウルスラ学園方面を見る。地図によればここらへんが競馬場だったようである。昭和30年に緑ヶ丘学園や緑小ができたときにその敷地となったらしい。下の地図でもこの橋は「平和橋」となっている。

かへるみち     尋常2年  米沢正利

ひらばるのはまで、べんとやたべました。せんそごつこやしました。なみにもつかりました。も、やめて、せんせいたちも、も、かへろやといひました。ぼくはたかはしと手をつないで、松のあひだをくぐつてかへりました。「又けいばしよにきから かへらんならんてやろかい。」「よだきなあ」と たかはしといひながら 手をつないで みちをぼつぽつかへりました。
かじや大かじがあつたら、じきならすかねがあります。又ぼつぼつかへりよつたら 水がのみたい。せんせいが がつかうまじのむなといつたから、おかしなかほして ぼつぼつかへりました。はしがきました。又じつといきよつたら くろぎのぶかたがきました。くろぎのぶかたのばばさんが ぼくのせんせいに れいをしました。あしこのあんちやんも れいをしました。みんな くろぎのぶかたは かねもちだと、みんなが いひました。
又はしがきました。みづがのみたい。たまらなかつた。あと二つはしをわたるとがつかうだとせんせいがいつた。みんなこらへてあるいた。一つはしがきました。そこのはしの下には さかなの子がたくさんおよいでゐました。さかなんこになると 水がのまれるねといひました。とびこんで あのさかなの子を とろと おもひました。それでもとびこむとせんせいからおごられる。石をなげたらばらつとちつて にげました。あら、んまいちつてにげました。
あと一つだ わたれ、そをするとがつかうがくるんだ。みんなげんきがついた。そこにもさかなの子がおよいでいます。あき山くんが、こ石をなげたら、よつてしまひました。ぼくもこ石をなげた。
もうがつかうがちかよりました。せんせいが、かけ足つてはしりました。がつかうにつきました。水をいそいでのみました。ぼくは すいとにいれて、ぐうぐう のみました。もう二じはんでした。


※けいばしょ---競馬場
※くろきのぶかた----黒木のぶ方、黒木君の家

しきりにノドの乾きを訴えている。この子は水筒は持っているようだが、当時は水筒を持たぬ子が多かったらしい。彼は他の子に水をあげてしまってなくなっていたのだろうか。
諸塚村で育った私の義兄によれば、昭和30年代になっても遠足に水筒を持って来られるのは裕福な家庭の子供だけであったとか。だから遠足の思い出はノドの乾きだったという。昭和35年に土々呂小に入学した私には遠足に水筒がない、という記憶は全くない。

下:笹目橋から沖田川を見る。この橋は私が小さいころまで木橋であった。昔はさびしかったここらは今ではホームセンターやドラッグストアが立ち並ぶ繁華な場所になった。


下:井替橋から井替川を見下ろす。周囲は一ヶ岡の住宅地になり、川の護岸が築かれ昔の面影はない。


かへつたこと       尋常2年    花岡友美

えんそくから かへつてきました。うちのぢいさんが、「だれたどが」と いひました。ぼくが「だれた」といひました。そして ぢさんがどこまでいたつかといひました。「ひらばるのけいばじようの下までいつた」といひました。ぢさんが「びゆに よつてくるもんじや」といひました。ぼくは「びゆから よつていぬるとえいなん」といひました。ぢいさんがぼくに、「えんにいつてみよ」といひました。
ぼくはいつて見ると、みのりやんが あめを二つくれました。そしてとけいをみると、三じはんでした。三じはんの きどうしやがきました。きてきを ぴいつとならしました。
えんにすわつてゐると、足がだれてゐます。じつとしてゐると、ねむたくなりました。みんなだれたろと おもひました。あしたは、にちよだからうれしいです。


おつかれさまでした。土々呂の花岡君宅から学校まで1kmあるから今日は15kmは歩いたんじゃないかな。

土々呂の子供 遠足 2

いよいよ遠足に出発である。目的地は平原の浜。今の緑ヶ丘の海岸である。
ナビで調べてみると現在は約5.5kmくらいである。子供の足でも2時間はかからないと思うが、結構遠い。今の遠足はどのくらい歩かせるのか知らないが、我々が小学校低学年のころはそこまで遠くはなかったとおもう。土々呂小から三松公園までで1.7kmくらいでも結構遠く感じていた。
よく行っていたのは中学校ウラの長浜である。土々呂小から1km。わざわざ平原の浜まで行かずともほとんど同じような場所である。

子供の記録によれば9時50分に目的地に着いている。8時頃出発したものだろうか。

下:遠足のルート。地図は戦前のもので平原の競馬場も記載がある。(クリック拡大)


いくみち             尋常2年  川名信一

ならんでいきました。まつばらをとほつていきました。ながたにきますと いへが なんげんもあります。はしの下に、おとこの子が7入水につかつてあそんでゐました。小さい子が手を たたいてよろこびました。みかんのによひが かざります。いへのわきに、みかんの白い花が さいてゐます。おだいさんが みちのねきに そこそこおいてあります。そのねきには 花がさしてあります。あか花も さしてありました。せいまいしよのまへにはたがたててありました。ほしのしるしがついてゐました。あしこの人は、まんしゆにいつてゐるとだと、せんせいがいひました。せいまいしよは 米やらつくとこです。きかいのおとがしてゐました。人がしごとをしてゐました。
又はしにきました。ここは まへより水が おい。下ん方が きらきら ひかつてながれちよります。みちのわきに、おせん人がならんで みてゐました。どんどんいきます。大けな まつの木が なんぶでん あります。みちが かげりです。すずしいところです。
まつの木の上を お日さまがいきます。いへが まつの木の下にあります。人がみてゐました。そして はなしてゐました。なん人もおりました。又みかんの花のによいがします。いいによいでした。いがだでも人がみてゐました。子をかるて はなしてゐました。おなごん子どもやら まつの木の下で あそんでゐました。
いがだんねけをいくと、おかどみのせいとがぼしにはあかすじときねすじをひつぱつてきました。そして、男の子が木村せんせいと いひました。みんなせんせいといひました。これは、せんせいが、一年のときと二年のときとおしへたといつた。みんなせんせいの そばにきました。「かへりにはがつこによれ」とせんせいが いつたら、「はい」つて、はしつていつた。
又 むこにいくと、ささめばしがきました。水がいつぺあります。さかなが およいでゐました。なんびきも およいでゐました。又をんなのせいとがきました。これも せんせいといひました。五年せいとせんせいがいひました。つねどみのねけにいくと 又おだいさんがありました。かみさんにれいをしました。

※かざります ----においます    ※おだいさん ----お大師さん
※まんしゆ ----満州        ※おせん人 ----大人
※なんぶでん ---なんぼでも     ※きねすじ ---黄色筋

川名という姓は小学校から見ると伊形の最奥の石田地区の姓だから、川名君は石田から学校に行って、こんどは来た道をたどって石田経由で平原に行く、という4kmにおよぶ無駄足を踏まされている。

伊形には松の並木があったようだ。また恒富に行ったと書いているが、当時延岡の南部は恒富村だから広義には平原は恒富。なお、ちょうどこの遠足の年の1933年2月に延岡市が発足している。土々呂が延岡市に編入されるのはその3年後の1936年。

どうやら当時は遠足は市内いっせいに同じ日にあったものか。道中で木村の前任校の岡富小と南方小の遠足に出会っている。教え子たちに出会った木村が前任地でも慕われていたことがしのべる。

下:平原の浜。緑ヶ丘の旭化成社宅の下。赤水方を望む。

下:方財、東海の鼻を望む。


ひらばるのはま 尋常2年 戸松愛明

ぼくたちが、ひらばるについたときが 九じ五十ぷんでした。せんせいが まつかさを ひろつてこいといひました。ひろつてきました。せんせいが「それで せんそうするぞ」といひました。みんなが うれしがつた。せんせいが二つにわけてくれた。あつちは一くみと二くみでした。こつちは三くみと四くみでした。それからはじめだしました。
ぼくが すすんでいくと、てつぽの玉が どんどんとんできます。ぼくは玉ん中をくぐつて一ばんさきに、いなだをやつたけれどもしにません。それだから ぼくは あつちのぢんにつつこんでいきました。ぼくがつつこんでいけば、ぼくには玉がひとつつもあたりません。ぼくは とうとうすだくんどもを やつつけてしまひました。それで ぼくたちが ばんざいをしました。そしたら、よねざわが、よこから 松かさを くらせたもんぢやから ぽくのかほから、ちが どんどんでました。ぼくは ちをおさへて やつつけました。そのとき、まもるくんが 木にのぼつて、ちようど どしんとおてて、はなぢが出ました。そしてだりからか かみをもらつてふいたら かほぢゆうちいだらけに なつてゐました。そして せんせいがそこのうみで かほあらよ、といひました。そしたら、みんないつて、まもるくんが あらひました。
ひらばるのはまは、大きな なみが ざあざあ きてゐました。けふは よい天きですから、人どみは うみにつかつて、あたまかりじやつぽりなみをかぶつたりしました。うみにつかつちよつて、のぼるが ひつこけて、まつぱだかになりました。そして、のぽるが だいぶんふかいところにいきました。せんせいとぼくと、みやのくんがそれをみました。そしてせんせいが、のぼる、といつてこゑを たてたら おかさね上つてきました。
そのとき、よその大きなせいとがきて、せんせいとおはなしをしてゐました。みなみかたのせいとで、せんせいが一年のときおしへたせいとです。いまは こうとう二年です。この子供は みんなさるまたをはいて、水をあべてきました。そしてせんせいをみつけてきました。子供は二人で、はなしました。木村せんせいが、「ふとつたね」といひました。二人は わらつてはなしました。せんせいは、「あそびにこい」つてわかれました。ぼくたちは もうだいぶんあそんだから 松の木の下に あつまれがあつてならんでかへりました。よその子供が ぎようさんきて、木村せんせいに、さよならをしました。


元気な子供たちだ。血だらけになって遊んでいる。昔の先生はそれくらいでは動じないようだ。海に飛び込んでいる子もいる。おそらく4月か5月の遠足だろうからまだ冷たいはずだが、昔の学校の安全管理はかなりゆるかった。のどかな時代だ。大人が「わっだ、ぼくじゃが!」と言っても気に留めるものではなかった。(※延岡方言 お前ら、危ないぞ)

下:子供たちはここでマツカサを拾ったのか。ここの松原も、もう松原ではなく雑木林になりつつある。
現在は市民ランナーのジョギングコースになっている。

土々呂の子供 遠足-1

昭和初期の土々呂小の木村寿教諭による綴方指導を

木村寿を研究し、彼の業績にそれこそ「光」をあてた、宮崎大学教授・菅邦男氏の労作「『赤い鳥』と綴方教育」が延岡図書館に著者から寄贈されている。
大部な著作なので土々呂小学校と門川の草川小学校、高森通夫関連の部分を中心に読んでみた。私が土々呂小の出身であり、現在門川に住んでいるし、既述のように高森通夫氏に会ったことがあるからである。

結論的にいえば大変面白かった。とりわけ土々呂小の木村寿にかかわるところは大変興味深い。80年前の教育実践であるが、現在でも十分先進的な事例であることは確かだ。菅教授の丹念な調査によって木村の人となりもうかがえる。彼の土々呂での子どもたちとの3年間はほとんどドラマである。

菅教授の仕事は一昨年、地元紙の夕刊デイリーに紹介されたのであるが、私は購読していないので最近まで全く知らなかったのである。氏の労作「『赤い鳥』と綴方教育」は定価12600円と高価でありごく小部数しか出版されてない。研究者向けだろうから実質一般の人が買って読むことは困難。もったいない。
せめて土々呂小がらみの部分だけでも土々呂の文化遺産としてここに紹介しよう。

木村がガリ版刷りで出し続けた文集は1年次が「ヒカリ」2年次が「ひかり」3年次が「光」となっている。3年間で22冊。それぞれが分厚い冊子でそれをクラス50数名分印刷したので木村の費やした労力たるや大変なものだ。今の学校と違いコピーや輪転機のない時代である。



夕刊デイリーでは土々呂小の文集「ひかり」に遠足をテーマとした連作があると紹介されていた。ぜひ読んでみたかったが延岡図書館には「ヒカリ」のごく一部しかないので、「『赤い鳥』と綴方教育」から引用する。

土々呂小から平原の浜、すなわち今の緑ヶ丘の海岸に遠足に行く。木村は従来の遠足のように「ぼやっといって、ぼやっとかえって、あとになにもないやうなことになってはつまらない。」と考え、事前に遠足の行程を地図につくり子供たちに前もって予習させ、遠足の様子を記録させるのに13人に分担を決めている。
以下が事前の分担。当番の子供はその部分をしっかり記憶にとどめるつもりで遠足に臨んだだろう。この中にはまだご存命の方もおられる。

えんそくのまえのばん

高千穂鉄道の車両たち

日之影駅は鉄道廃止以前から温泉になっていたが、近年五ヶ瀬川沿いの旧国道を通らないので行ったことがなかった。
久しぶりに日之影の町を通ってみた。

温泉の駐車場横には2両のTR車両があった。動態保存か?と思えば少しかわいそうなことになっている。

下:TR104と105


下:裏に回ると。真ん中が切り取られて出入り口に。


下:中は宿泊施設。運転台は洗面所。窓ガラスが汚いのが気になる。


かつて在籍したトロッコ車両は水戸岡鋭治氏のデザインで改装されてJR日南線で「海幸山幸」として活躍している。なかなかしゃれた車両になって脚光を浴びている。彼らは幸せ者だ。

下:国道325号の下野の道の駅(トンネルの駅)にはTR300が。そばのSLとあいまってよく目立ち格好のランドマークとなっている。だからこの道の駅はいつも客が多い。

下:運転士はソフトクリーム

下:走っていた頃の雄姿

下:この橋梁は高千穂から高森に至る未成線の名残である。

高千穂鉄道のトロッコ

高千穂はバイパスができてからは中心街を通ることがなくなった。櫛触神社に寄ろうと思い、久しぶりに通ってみた。駅があったのでふと寄ってみた。鉄道が廃止されているので周囲はかなりうらびれていた。


廃線敷きでも見ようか、と思ったらなんと入場料が要った。列車がくるわけでもないのに奇妙だが。


下:「たぢからくん」 どうみてもトーマスの転用。前髪とヒゲをつけただけ。中国の遊園地なみのパクリ。これを笑ってすますのなら、中国のニセミッキーにもメクジラ立てることはない。


構内で写真を撮っていたら、レールの先からトロッコが帰ってきた。降りてきた家族連れが「とっても面白かったですよ」というので急遽乗ってみることにした。乗客一人で少々気の毒であるが。このトロッコの料金は1台いくらではなく1人いくらだから、ドライバー1人に乗客1人は収益が悪い。

下:駆動車に給油中。農業用の三菱エンジン。

下:付随車。車輪径に注意。なんとわずか10cm程度。おいおい大丈夫かよ。乗ってみたら案の上ひどい振動と騒音だった。ドライバーのおじさんに「車輪大きくできないの?」と聞いたら、完全手作りのトロッコなので適当な車輪がない、とのこと。たしかに日曜大工感の横溢する完全木造。

下:トンネルの見える延岡方に向けて出発し、2.1km隣の岩戸駅で折り返す往復4.2km。


下:終点岩戸駅ホームから岩戸川鉄橋を見る。とても広いので驚く。これなら人道、自転車道にラクラク転用できそうだ。ドライバーが橋の整備・塗装が済む数年後にはトロッコ運転を橋の向こうまで延長する、と言っていた。それは楽しみだ。それまで生きてなきゃ。


下:橋梁部では伸縮継目が使われている。

しかし、高いことで有名なこの巨大な橋を再塗装するだけでもいくらかかるんだ?そうしてトロッコ営業距離を延長するといってもその塗装費用すら回収するのは絶対不可能。草ボーボーになりつつある路盤の除草だけでも大変な人件費がいる。このわずか2~3kmの路線を維持するだけでも莫大な金が要る。枕木も朽ちつつある。交換するとしたら大変だ。あらためて鉄道の維持は大金が要る、と実感できるのである。

下:古い映画であるが「小さな恋のメロディ」のエンディングはこんなトロッコで二人が逃走する場面だったなぁ。しかしビージーズの"Melody Fair"ではスピード感が出ないので音楽は「花嫁」で。後半では騒音も記録されてます。

高千穂 下野八幡

30年ほど前に高千穂の下野八幡に行って、神社入り口に立つスギの巨樹を見て、スギっていうのはこれが本来の姿なんだなぁ、と驚いた記憶がある。とにかく直幹の杉を見慣れた目には縄文土器のように暴れまくる枝は異様だった。

ところが最近再訪しようと思って行ったものの場所がわからなくてあきらめたことがある。そこで今日リベンジに行ったのである。
観光案内所で地図をもらい、国道325号を右折して県道204号を下野集落に入る。たしかにナビには神社のマークと「イチョウ・ケヤキ」の文字が。かなりわかりにくい曲がりくねった細い農道を行くと現れた。昔ナビもない頃こんなややこしいところにどうやって来たんだろう?

大きな地図で見る

帰ってグーグルマップを見ると国道から入るもう一本の道があって、そちらの方がずっと早そうである。これを読んで行こうと思う人はそちらからどうぞ。

下:例のスギの木、「逆さ杉」はだいぶ枝を伐られて昔の暴れ杉の迫力はないような気がした。写真ではスケール感がわからないが巨木である。(クリック拡大)


下:前の時には気づかなかったが立派な仁王がいた。県内の神社では珍しい。


年銘を見ると、文政6年だからおよそ180年前。彫りからみて豊後方面の石工なのではないだろうか。腕の太さがすごい。マッチョなデザインを狙ったんだか、石工の腕が悪くてバランスを取れなかったんだかわからないが、これはこれで素晴らしい仁王である。おおいに気に入った。


下:本殿はありきたり。


下:名勝、オオケヤキ。これも巨木。全貌を写真に撮るのは難しい。神社の価値を決めるのはやはり樹木である。






コンペイトウじいさん

延岡ケーブルメディアワイワイが発行する無料の地域誌「ウィング」は毎月地域の歴史、名所を紹介している。
なかなかよく取材しており毎回おもしろい。当方は地域紙の夕刊デイリーを購読していないこともあって、県北の情報にうとく、「ウィング」によって知る貴重な地元情報がある。

下:wing


7月号には「岩熊井堰」の記事があった。この井堰についての概略はココを参照して欲しい。

下:現在の岩熊井堰。農業用の堰にしては大きい。harbyさんのブログより拝借。



江戸時代に初めてこの井堰の建設に尽力した藩の家老、藤江監物の美談は学校の副読本に取り上げられたりしているので地元ではよく知られている。

現在の岩熊井堰と関連の用水路は戦前と戦後に2度の大改修を受けて近代化されたものである。ウェブ上で「岩熊井堰」を検索すると江戸時代の藤江監物がらみの記事はあちこちに見られるがこの大改修についての情報は少ない。前述のリンク先「新延岡百景」には簡単な記述があるのでそちらも参照されたい。
戦前の歴史を「ウィング」から抄録してみる。

明治以降、藩の手を離れた岩熊井堰をはじめとした五ヶ瀬川流域の用水は荒廃していた。
恒富村長であった日吉幾治は大正8年、それらを一本化する構想をたてて、地域の篤農であった伊東常太郎、山本七郎を筑後川流域の先進地に派遣し研究させた。
後継の恒富村長、門馬豊治は引き続き岩熊井堰大改修計画を立てた。南方村長、甲斐奎太郎も同様の意思を持って県議に転身し県政に働きかけた。
それらは県の認めるところとなり昭和3年に予算が認められ、井堰と用水路改修の工事が始まった。大工事は5年の歳月をかけ昭和8年に全長262mの井堰、南北幹線用水路の完成を見た。延岡市の平野部よ沃野にし、干害による被害がないのはこの事業に尽力した先人たちの努力の賜物である。

この井堰の戦前・戦後の2度の大改修に尽力した人々の中で山本七郎は後に市の文化功労賞、県から県文化賞が贈られた。彼は出会う人にコンペイトウをあげていたことから「コンペイトウじいさん」として慕われた。


下:幹線水路掘削工事。昭和6年。 (ウィングより転載)


上の関係者の中の山本、日吉は今でも南延岡駅周辺(「浜」という集落)に在住する一族である。
彼らはその昔、播州赤穂から進んだ製塩技術を延岡に伝えるために招聘された人々たちの子孫にあたる。昔は浜川の入り江に塩田があったものだろう。
実は私もその縁戚にあたる。私にとっては山本七郎は大叔父にあたる。子供時分には何度も七郎に会っているし、お宅にも伺った、が、なにせ小さかったので彼の人となりには何の記憶も無く、ただ「コンペイトウ」の思い出しかない。私ももらった記憶がある。

「ウィング」の記事ではだれでもコンペイトウをあげたように書いてあるが、私の記憶では子供にしかあげなかったと思う。私が子供だったからそう思い込んでいたのかもしれないが。いずれにせよお菓子の少なかった時代だから子供にはコンペイトウはうれしかった。

しかし特筆すべきはコンペイトウではなく、それを入れた袋なのである。彼は常にポケットだかカバンの中だかにコンペイトウを持ち歩いていたのであるが、その袋が実にきれいだったのである。布で巾着状に作った小袋であるが奥さんが手縫いで作っていたものである。コンペイトウよりそのほうに手間と費用がかかっていたのではないだろうか。

下:なにせ半世紀も前のこと、その袋は手元にないので記憶を頼りに絵を描いてみた。布地はさまざまだった。

下:浜の七郎自宅に行くとそのコンペイトウがなんと一斗缶にギッシリ詰まっていて驚いた。大人買い。これも記憶で絵を描いてみた。こんなものだったろう。


なぜコンペイトウを人にあげるのか、については「若かったころの不徳への贖罪」と聞いたことがある。彼の功績から見て若かった頃から立派な人物だったはずだから贖罪の必要はないはずであるが。彼をよく知る私の母や伯父、伯母たちもみんな死んでしまった。

これを今マネすると警察に通報されるかもしれない。子供たちは知らないオジサンから食べ物をもらってはイケナイ、としこまれているし、そもそもコンペイトウを喜ぶかどうか疑わしい。昔はごちそうだったバナナをあげる、と言っても子供は「イラン。スカン」と言う時代である。

土々呂臨時停車場

門川の古い地図を見ていると「かくさ駅」が存在する。現在はない。門川駅から北に1km地点である。
調べてみると1959年(昭和34年)7月に 「加草仮乗降場」として設置されている。つまり夏場だけ加草海水浴場のために儲けられた臨時駅なのである。

下:現在のその場所。駅の片鱗もうかがえない。


下:赤丸内に「かくさ駅」。昭和39年測量、53年改測、となっているが、改測にはこの臨時駅の廃止と海水浴場の埋め立ては織り込まれていない。(クリック拡大)

ここも土々呂海水浴場と同じ歴史をたどっている。すなわち海水の汚濁による海水浴場の廃止と埋め立て、公園とプールの設置。

土々呂海水浴場の国鉄臨時停車場については以前にも取り上げたが、再度記する。
調べてみると、1954年(昭和29年)8月土々呂海水浴場仮乗降場を新設(廃止時期不詳)、とある。
海水浴場は水質悪化により1969年(昭和44年)に閉鎖されたが、私の記憶ではこの停車場はそれより数年以前に利用されなくなっていたと思う。2両編成くらいのディーゼルカーが延岡から海水浴客を運んでいた。蒸気機関車も停まっていた記憶がある。海水浴場は当時は一大行楽地であった。

下:中央にプラットホームが見える。(クリック拡大)


下:同じ場所から私の父が撮った写真には、蒸気機関車が牽く貨物列車が写っている。
例の松の大木は1本に減っているので上の写真より1,2年後ではないか。昭和36年頃。


下:現在の様子。正面、海水浴場裏の山が削られ住宅地になっているし、湾は埋め立てられ狭くなったので同一地点とは思えないほどの変化。


プロフィール

トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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