生頼範義展

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宮崎アートセンターで開催中の生頼範義展に出かけた。生頼氏を慕う地元の人々の大変な尽力で開催に至った。

たいていの人が生頼範義の絵はどこかで見ているはずだが、商業美術なので画家を意識することなく見過している。それに彼の活躍したのは1970年代から1990年代なので若い人には過去の人になっているかもしれない。そもそも彼の名前の生頼(おうらい)が読めないので、名前の認知にかなり損をしているかもしれない。私だって最近までオライとばかり思っていて、英字表記のOhraiを見て、オウライだと知ったくらいである。絵にはカッコいいサインが入っているのであるが、これまた読めないのである。

生頼氏は全国的に活躍したし、映画「スターウォーズ」のポスターで有名であるくらい超メジャーであるが、全盛時代よりずっと宮崎に在住している宮崎の地元作家なのである。こんな偉大な作家の回顧展が宮崎くんだりで開催される訳はそれなのである。もちろん関係者の大変なご苦労のおかげでもある。県民にとっては望外で大変な福音なのであるから、こぞって見に行かねばならない。

アートセンター1階のエレベーターの扉。宮本武蔵がすごい迫力。
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この展覧会は作品を撮影していい部屋が二つ用意されている。太っ腹でブロガーには嬉しい配慮。
生頼氏の作品はタブローではなく、書籍、雑誌、ポスターなどの印刷を前提としている。1980年代の文庫本大ブームの頃には大量のカバー絵を描いているので、本が多く展示されている。

小松左京の作品は生頼氏が多い。その当時は生頼氏とは気づかなかった。
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点描で描かれた人物画には写真では表せない迫力がある。原画は大きくて素晴らしい力がある。ホワイトで修正・レタッチし放題のいわゆる版下絵とは異なり、修正の跡が見られないのがすごい。だれでも生頼氏に描いてもらえば大人物に見えること間違いなし。
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生頼氏は人物は男女や古今東西を問わず大変素晴らしいが、SF物やメカ物、ミリタリー物がまた超絶的に素晴らしい。
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これはガラス越しではっきりしないが。 P51が朝焼けだか夕焼けの中にたたずむ姿。第二次大戦中でも最も無機的で現代的なデザインの殺人兵器が素晴らしい詩情をたたえている。このカバー絵だけでもこの本を買いたくなる。私の生頼認識はこの手の作品ばかりだった。
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右の「目標、イ号潜水艦」の表紙はイ号潜水艦が浮上停泊している様子であるが、これまた素晴らしい雰囲気をかもし出している。この原画が見たかったが、なかった。ロマンティックな月明かりの南の島と殺人兵器の取り合わせは奇妙であるが、実はストーリーの一場面を活写しているのである。イギリス人作家の作品で、大戦中、インド洋でイギリスのインド航路撹乱の任務を負ったイ号潜水艦とこれを追撃する英国駆逐艦との息づまる攻防が描かれる。だからこの場面はアフリカ東海岸ザンジバル近辺なのである。帝国海軍の戦域は広かった。イギリスが主役で日本が悪役ではあるが、あまりの面白さに私は2度も読んでしまった記憶がある。まぁ、潜水艦物は本にしても映画にしてもあまりハズレがない、というのが私の自論。
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新聞広告用の武将絵。絵が本の購入意欲を高めたことは間違いない。こりゃ売れるよ。生頼さんに依頼が殺到したことだろう。この原画も見たかったが展示はなかった。
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上の絵にはモノクロ作品ならではの素晴らしい力がある。ところが、カラーのリキテックス作品の武将絵はこれまた超絶的である。「三国志」「信長の野望」など、コンピュータRPGゲームのパッケージ絵の原画がいくつも展示されていた。かなり大きな作品である。登場人物達、戦闘場面、地図、まつわる美女などが、一枚の絵の中にたくみに構成されていて、メチャ購入意欲をそそる。この絵に釣られて購入したら、NECのPC98時代のショボイ画面に失望した人も多かったはず。撮影禁止だったのでその写真はない。ぜひ会場で見て欲しい。小さい印刷物でみるとその美しさと神業的迫力はわからない。

徳間書店のSFアドベンチャーという雑誌があり、生頼氏が80年代に91回にわたって表紙を描いている。一部が撮影OKだった。
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原画はキャンバスに描かれており、布地が見える。
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作画のつど、アクセサリーや衣装を買ってきたというからすごい。
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マス目の入った下絵が展示されていて、製作過程をうかがえる。ビデオでのメイキング映像も見れた。魔法ではなくて、本当に手と筆で描いていることがわかる。
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生頼氏は超売れっ子イラストレーターだったから、今回展示は作品のごく一部のはずである。どこかに常設館をつくり、その全貌を見る事ができたら素晴らしいだろう。知事さんとか市長さん、宮崎の宝物ですよ。お金を惜しんではいけません。

詳しい情報は、こちらの宮崎アートセンターオフィシャルブログで。




地理院地図からみる索道

2月9日付ポストで南延岡~椎葉間の索道について書いた。コチラ参照。

上椎葉ダム建設記録 その4.wmv_000452118

国土地理院の旧版地図を買って調べると、その索道が記載された版があるのを見つけた。

せっかく調べたので年代純に並べる。すべて愛宕山南麓を中心にしてある。

まず、明治37年(1904年)の地図。日露戦争の年である。もちろんこの地図には索道は載ってない。それどころか、送電線も日豊線もない。ほとんど江戸時代そのままなのに、地図だけはえらく精緻で近代的である。
愛宕 明治37s

次に、昭和7年頃(1932年)と思われる版。まだ索道はないが、送電線はいくつも見られる。日豊線もできた。日本窒素工場もできている。雷管工場はまだない。諸塚の塚原ダムのために索道が架設されたのはこの後だろう。
愛宕1930ss

昭和30年(1955年)。ここで愛宕山南麓を東西に一直線に横切る索道が現れる。上椎葉ダムの完成が昭和30年である。索道の始点は構口である。索道は送電線と同様に山があろうが谷があろうが直線である。この地図には向洋高校、雷管工場がみてとれる。緑ヶ丘の競馬場がまだある。現在のウルスラ学園の敷地である。浜川が幅広くのたくっている。
愛宕 昭和30-2s

地図では索道と送電線はちょっと見には見分けづらい。虫眼鏡でよーーく見ると下のような違いがある。

索道s

これは平成3年(1991年) 愛宕山南麓にあるのは送電線。索道と似たルートだが、微妙に異なる。若葉・片田の団地が現れ、10号線バイパスができ、激変している。
愛宕 平成s70

Youtubeにアップロードした動画を再録


ちなみに、地理院の旧版地図はコチラで検索して謄本を購入することができる。白黒コピーで500円である。実は5万分の1ではなく、25000分の1が欲しいのであるが、残念ながら、明治時代、大正時代の延岡は5万分の1しかない。

古写真 今山 城山

黒木泰則さんの古写真に今山のお大師さん関連があるので、私の手持ちの写真とともに。

昭和30年、大師像の建設工事。
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43昭和30年 posted by (C)オトジマ

昭和35年ごろか。
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daishi matsuri 1960 (2) posted by (C)オトジマ

現在。
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P2080283 posted by (C)オトジマ

60年近い年月に緑青が浮いて貫禄が出ている。
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P2080295 posted by (C)オトジマ

御詠歌隊の行列。私はこのような行列を見た記憶はない。今じゃ見られないのではにか。とにかく、昔は大師信仰がとても盛んだったことは確かだ。
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44今山に向かう御詠歌集団 posted by (C)オトジマ

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daishi matsuri 1960 (3) posted by (C)オトジマ

わかりづらいが、押し合いへしあいで、お大師さんの参道を上がる人々。幼かった私には白い服、兵隊帽で松葉杖をついたりしてアコーデオンで軍歌を弾き、辻辻に立つ傷痍軍人たちの不気味な姿が印象的だった。
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daishi matsuri 1960 (4) posted by (C)オトジマ

サーカスも来ていた。たくさんの露店が出ていた。刃物屋が多かった。薪を大根でも切るようにトントントンと包丁で切るデモンストレーションが忘れられない。
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img130 posted by (C)オトジマ

幸町の参道。私の記憶にあるのはアズマヤと寿屋の間。この写真の店には記憶がない。栄書房なんてあったっけ。
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P4200131e posted by (C)オトジマ

現在。反対側から見ている。アズマヤと寿屋も昔の話になった。
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P2080303 posted by (C)オトジマ

山下通りから見る参道。現在。
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P2080836 posted by (C)オトジマ

今山ついでに城山。土々呂から市内に出ると、もう一つの行楽名所、城山は欠かせなかった。動物園に楽しい遊具。お大師さんの人出でごった返している。サル山が見える。昭和35年ごろ。
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shiroyama daishi matsuri 1960 (5) posted by (C)オトジマ

私が高校の頃(1970年ごろ)、ある時、友人達と話していたら「県内にいるライオンは城山が唯一だってよ」という話題になり、それじゃあ、ということで放課後みんなで見に行ったことがある。上の写真から10年後には城山はかつての輝きを失い、さびしげでくたびれたライオンがいたっけ。その後も、城山の凋落は続き、最後に見たときにはニワトリやウサギなど家畜しかいなかった記憶がある。昭和63年(1988年)に閉鎖されたとか。

二の丸広場には遊具がいろいろ。眺めているのは幼い私。向こうに本丸に上がるスロープの石垣が見える。
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img113 posted by (C)オトジマ

私はこれに乗った記憶はない。きっと親にお金がなかったからだろう。
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P4200129e posted by (C)オトジマ

銀河ロッジで雪遊び

昨日、2月22日の土曜日に中小屋には10日前の雪がたくさん残っていた。今日は暖かい日ではあったが、子ども達に雪を見せたくて再び中小屋に向かった。ところが、昨日と違い、国道388号は各所で渋滞。つまり、宇納間地蔵の大祭の中日というのでたくさんの車が宇納間に押し寄せているのである。国道は宇納間地蔵近辺は封鎖されているので、役場駐車場から臨時の河川敷仮設橋を通り、裏道でバイパスする。普段より40分よけいに時間がかかった。たかだか地蔵といえどもあなどれない集客力を持っているものだと驚いた。

六峰街道の除雪が心配だったが、少なくとも銀河ロッジまでは除雪されていたので無事到着。
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P2233439 posted by (C)オトジマ
子ども達はさっそく歓声をあげて雪の中に突進する。
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P2233404 posted by (C)オトジマ

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雪合戦
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P2233434 posted by (C)オトジマ



帰りは、国道388号の離合渋滞がいやなので日之影に下る林道を通った。峠には「チェーン必要」と標識があったが、行ける所まで行ってみよう、ということで下り始めたが、除雪してあり、なんなく通れた、しかし、北西斜面沿いなので雪は宇納間口とは比較にならないほど多かった。

中小屋の雪

宇納間地蔵に参るついでに、足を伸ばして中小屋まで行ってみた。宇納間地蔵大祭の交通整理員は「雪で行けないらしいですよ」と案じてくれたが、行けるところまで行ってみよう。

里はここまでで、この奥が日之影方面への峠道。峠まで11km。
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椎野から上に行くと雪がまだ雪がとけ残っている。
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除雪してなかったらとても走れない。
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P2223399 posted by (C)オトジマ

銀河ロッジのあたり
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中小屋で。こうなると立派に雪国の風情がある。南国宮崎ですよ!
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P2223395 posted by (C)オトジマ

六峰街道に入ると、除雪してない。日蔭はこんなふう。4輪駆動車ならなんとかなりそうである。
天文台まで行ってみようと、と思い、このワダチのあとをたどる。下り坂なのでなんとか転がす。
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P2223394 posted by (C)オトジマ

しかし、この200mを突破したが、その先は無理と判断して戻ろうとしたら、帰りは上り坂。バーディの細いタイヤではすぐにスタックして、容易なことでは前進できないので雪の中を押す。たかだか50ccのバイクがこんなに重いとは!汗だくになって息を切らして悪戦苦闘の末やっとのことで脱出した。行きも帰りも一台の車にも出会わなかった道だから、あの峠の雪の中で立ち往生していたら、11kmを麓まで歩いて降りるハメになるところだった。うっかりバイクで雪道に踏み込むものではないことを初めて知った。

下の動画は峠を目指し快調に走っているところ。



宇納間地蔵 ご開帳

昼のローカルニュースで宇納間地蔵の大祭、それも60年に一度のご開帳がある、というのを聞いた。宇納間は門川から35kmほどだから原付で行くにはちょうどいい。昼から出かけてみた。

途中、ひき逃げ現場発見! 被害者は標識で仰向けになって倒れていた。「50kmと言ってるのにお前が飛ばすからだよ」と訴えている。重症だ。
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P2223352 posted by (C)オトジマ

300m先で、ひき逃げ犯自滅。標識に返り討ちにあって甚大な損害。
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P2223351m posted by (C)オトジマ

というところで、原付をすっとばして国道388号を走る。普段はめったに車がいない国道だが今日はさすがに多い。宇納間の町が近づくと、街中は進入禁止、旧役場の駐車場に回される。たくさんの車。
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P2223357 posted by (C)オトジマ

河川敷も埋め立てて臨時駐車場と迂回路になっている。よっぽどのイベントである。
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国道は露店と参詣客でいっぱい!! ふだんはさびれた過疎地なのに!
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おこし
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らくがん
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昔から露店の定番、刃物屋
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P2223366 posted by (C)オトジマ

苗屋
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お面。昔懐かしいおまつりだなぁ。
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国道388号は封鎖
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P2223369 posted by (C)オトジマ

全長寺への参道
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P2223370 posted by (C)オトジマ

石段の上に山門。山門には仁王がいる。
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P2223372 posted by (C)オトジマ

全長寺。本堂の人々が拝んでいるところに黄金の地蔵がご開帳されている。撮影禁止の張り紙が何枚もあるので、写真は遠慮している。どこかのテレビ局が来ている。
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P2223374 posted by (C)オトジマ

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P2223384 posted by (C)オトジマ

火除けのお札をもらう人々。もちろん有料である。
石段の上の地蔵堂はどうなってるんだろう、と頑張って登ってみる。365段あるとか。
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P2223375 posted by (C)オトジマ

見下ろすとこんな風。かなりきつい。
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P2223376 posted by (C)オトジマ

横から見るとこんな風。上に着いたら汗がでている。
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P2223382 posted by (C)オトジマ

ようやっと登ったが、扉は閉まっている。扉が開くからご開帳というわけでもないのね。地蔵は下の本堂に運んだわけである。
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P2223377 posted by (C)オトジマ

まだ雪が残っている
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P2223380 posted by (C)オトジマ

砲弾が飾ってあるので、戦勝の奉納かとおもったが、石碑は地蔵堂建立の記念碑であるから、日露戦争とは関係ないようだ。
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P2223378e posted by (C)オトジマ

門川からも何軒も出店が出ていた。これは地蔵の絵でお馴染みの相良さん。
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P2223386 posted by (C)オトジマ

彼の絵は和紙よりもダンボールの方が相性が良さそうだ。
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P2223387 posted by (C)オトジマ

大祭とご開帳は2月22日~24日。明23日(日)は今日にも増して賑わうのではないか。
地蔵の形のラクガンをお土産に買ってきた。
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P2223402 posted by (C)オトジマ

古写真 南駅

延岡の古い写真を見ていたら、面白い写真を見つけた。南延岡駅の写真。昨年、久大線の豊後森駅の扇形車庫の廃墟を見に行ったら、そういえば南延岡駅にもこんなのがあったよね、と思い出した。高校時代はSLブームの頃で、全国からマニアが日豊線の撮影に来ていて、私もその扇形車庫にSLの写真を撮りにいった記憶はあるが、写真は見当たらない。どこか捜せはあるんだろうが・・・。残念。

これが愛宕山から撮影された昔の南延岡駅。田んぼの中に孤立している。浜川がいまと同じルートを辿っているのでかろうじて南延岡とわかる。扇形車庫も旭化成(旧日窒)への引き込み線もある。
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これに現在の国道バイパスを入れてみると・・・。写真中央あたりに現在、HIヒロセ、ベスト電器がある。
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現在の様子。雷管工場、レオナ工場、国道バイパスができて激変。扇形車庫のあたりはパチンコ屋のオーパスになっている。
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PB010032e posted by (C)オトジマ

オーパスのあたりに扇形車庫があった。
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P2123288 posted by (C)オトジマ

これは30年くらい前か。まだ扇形車庫があったころ。
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P6050630e posted by (C)オトジマ

これは豊後森に残る扇形車庫
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P9229022 posted by (C)オトジマ

中はかなり広い。延岡のもこれと似たようなものだったはず。残しとけばなぁ・・・
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P9229027 posted by (C)オトジマ

昭和34年ごろか。私の父が撮影。大きくはないが、立派に駅ではある。現在の味気なさに比べれば。
南延岡駅 1960
南延岡駅 1960 posted by (C)オトジマ

現在の南駅はすっかり昔の面影はない。
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CIMG6171 posted by (C)オトジマ


南延岡機関区で。お召し列車用にピカピカに磨かれている。昭和40年代。
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古写真 旭化成

黒木さん所蔵の写真と同じものが我家のアルバムにもあった。戦前の日本窒素延岡工場での練兵の様子。我家の写真の方が鮮明なのでそちらを掲載する。
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img119 posted by (C)オトジマ

私の叔父は戦前レーヨン工場に勤務していた。工場では工員の軍事訓練が行われていたのだろう。複数あるところをみると複製してみんなに配布されたのだろう。

背景はレーヨン工場だと思う。
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img120 posted by (C)オトジマ

工員さんたちが祝子川で集合写真。よく見るとまだ少年も多い。高等小学校を出て、入社した人も多かったのではないか。そうすると14歳とか15歳ということになる。
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img118 posted by (C)オトジマ

レーヨン工場。建物に迷彩塗装してあるから戦時中だろう
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P4200170e posted by (C)オトジマ

レーヨン工場。時代は戦前だろう。祝子川にあんな大きな中洲があったかなぁ、と現在をグーグルマップで見てみると、たしかに大きな河川敷の畑がある。現在は4階建ての桜園の社宅も昔は平屋がズラリと並んでいる。
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P6196415e posted by (C)オトジマ

これは黒木泰則さんの写真から。ベンベルグ工場らしい。ちょっと見には女学校の運動会の花輪行進に見える。「武運長久」を見ると、戦時中の社内運動会か。戦時中は延岡高女の生徒達は勤労動員で工場に行ってたらしいから、その女生徒たちかもしれない。全員黒いストッキングをはいてるところなど、いかにも女工さんというより女学生の雰囲気だ。
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38ベンベルグ工場 posted by (C)オトジマ

ベンベルグ工場。昔は大勢の女工さんがいたんだなぁ。
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39ベンベルグ工場2戦前 posted by (C)オトジマ

私の叔父は早くに日本窒素を退社し、その後戦死している。その後、家族や縁者に旭化成関係者がいないので我家に旭化成関連の戦後の写真はぜんぜんない。延岡市内には大量にあるだろうから、あえて私が出すまでもないのであるが。

唯一私の父の写真の中に昭和37年皇太子夫妻(今上陛下夫妻)が旭化成を視察に来られた時の写真がある。まさか父がこんなにそばに近づけたとは思えないから、誰かからもらったと思われる。後ろに当時の黒木博知事と思しき人物がいる。
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img123 posted by (C)オトジマ

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img122 posted by (C)オトジマ

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img124 posted by (C)オトジマ

古写真 土々呂港

土々呂港は現在では純漁港であるが、新港ができる以前は商港でもあった。下の写真は1969年。新港はまだない。今は土々呂漁港の埋め立て部分が拡張されている。土々呂駅周辺ではすでに清本鉄工所がすでにできているし、職業訓練校の造成が進んでいる。鯛名の山の段々畑がまだ見えるがすでに耕作はされていなかったのではないか。
土々呂湾 1969

今回は私の父が昭和35年前後に撮影した写真を中心に。上の航空写真の数年前である。以前にアップロードした写真もあるので再録となる。

石炭船が来ていた頃。貨物船は木造が多かった。(1960年、昭和35年頃)
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土々呂港 1959-2 posted by (C)オトジマ

まだ機帆船すらあった時代。鉄の船は土々呂港では珍しかった。
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img111 posted by (C)オトジマ

鯛名側から妙見の石油タンクを見る(1960年、昭和35年頃)
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sekiyu kichi-2 60 posted by (C)オトジマ

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sekiyu kichi 60 posted by (C)オトジマ

自衛艦も入港していた。 「いわぎく」  自衛隊設置まもないころでこの船はアメリカからの貸与品。元来はLCSと呼ばれる上陸支援艇。(1960年、昭和35年頃)
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iwagiku 1960 posted by (C)オトジマ

後ろの山は鯛名。
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img210 posted by (C)オトジマ

鯛名から土々呂方面を見る(1960年、昭和35年頃)
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鯛名から東浜 1960 posted by (C)オトジマ

現在の様子
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P1042956 - コピー posted by (C)オトジマ

妙見の防波堤から鯛名方面を見る。
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img112 posted by (C)オトジマ

土々呂漁港埋め立て工事。まず擁壁が作られて・・・・
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1961 totoro posted by (C)オトジマ

湾内を浚渫した土砂を流し込んで埋め立て。海水交じりの砂を流す巨大な鉄管がつながっている。(1962年、昭和37年頃)
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上の場所の埋め立て以前。
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totoro port ships e posted by (C)オトジマ

現在。土々呂漁港から鯛名方面を見る
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CIMG20 posted by (C)オトジマ

土々呂漁港の第二次拡張工事。これは1971年だから上の工事から9年後くらいか。
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1971 3e posted by (C)オトジマ

上の場所、現在の様子
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Totoro bay 2 posted by (C)オトジマ

櫛津の入り江での潮干狩り。昔は盛んだった。(1960年、昭和35年頃)
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櫛津貝掘り 1961-2 posted by (C)オトジマ


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櫛津貝掘り 1961-3 posted by (C)オトジマ

たぶん湾奥から湾口方を見ているんだろうが、よくわからん。対岸に建物がたくさんあるのが気になる。あんなのあったっけ?(1960年、昭和35年頃)
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櫛津貝掘り 1961 posted by (C)オトジマ

現在の様子。これは満潮だから、実は昔とあまり変わらない。中央の小さな丘が妙見社。妙見橋は見えない。
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P2060596 posted by (C)オトジマ

10号線開通直後の土々呂。市街地の向こうに櫛津の入り江が見える。この写真をもうちょい左に振ってくれれば埋め立て以前の土々呂漁港、というより単なる砂浜が見えるのであるが・・・。でも魚加工場の魚干し場らしきは左端に見える。(1960年、昭和35年頃)
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土々呂-1960 posted by (C)オトジマ

これは土々呂茶屋あたりの魚干し場。向こうに霧島山。左手、高い木が見えるが、伊形支所の楠。しかし、この写真は撮影年が判然としない。だからこれが砂浜だった頃なのか、埋め立て後なのかわからない。父がしきりに写真を撮っていた頃は埋め立ての前後なので、微妙である。
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img108 posted by (C)オトジマ

1963年(昭和38年)ごろか。手がかりは写っている私の年齢である。実は私が写っているのであるが、消してある。
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1963 e 土々呂湾 posted by (C)オトジマ

1970年ごろの土々呂湾。まだ土々呂海浜公園はできてない。
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img164 posted by (C)オトジマ

戦前の地図でみる延岡市南部。(クリック拡大)
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※江湖入り江の古地図、見つけました! コチラ


雪!!

今日は「古写真」をお休みして閑話休題。

昨夜はコチラでも雪が降ったらしい。寝ていたから知らないのであるが、朝起きたら何事もなかったからチラホラ舞ったくらいか。しかし、延岡の山間部では雪で休校の学校もあったとか。今朝、延岡に行ったときに可愛岳を見ると真っ白だった。

ここらでは久しく雪の積もったのを見た事がない。中学生に聞いてみると、うまれてこのかた雪の積もったのを見た事がない、というくらいだからここ10年くらいは積もってないのではないか。宮崎県平野部は沖縄を除けば日本一雪のないところであるから、チラホラ舞ったくらいで大騒ぎである。



というところで、こりゃ日之影まで行けば雪ダルマくらい作れるか、ということで昼から出かけてみた。
ところが昼ごろには暖かさのためか雪は解けて、行縢には全く雪はなし。よっちみろ屋あたりにもない。日之影町に入ってやっと路側帯や山の上に雪が見えた。
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P2153318 posted by (C)オトジマ

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P2153317 posted by (C)オトジマ

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P2153315 posted by (C)オトジマ

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P2153316 posted by (C)オトジマ


高千穂まで行くには時間がなかったのでエトランドに行ってみることにした。国道からの入り口には「雪の装備なしでは登れません」と看板があったが、雪は見当たらないのでどんどん登っていくと・・・・・ 1kmも行かないうちに待望の雪道となる。倒木を片付けた形跡がある。
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P2153314 posted by (C)オトジマ

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P2153313 posted by (C)オトジマ

かまわずドンドン行くと・・・
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P2153312 posted by (C)オトジマ

雪がハラをこするくらいになってきた・・・
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P2153310 posted by (C)オトジマ

ついに先行車の轍がなくなった。あきらめて引き返したようだ。これではいかに蛮勇を奮ってもこの先には行けそうもないので私も引き返した。
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P2153309 posted by (C)オトジマ

まぁ、雪が見れてよかったかな。帰りは松瀬越えで国道388経由で帰ったが、松瀬には積もった名残が残っていた。
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P2153339 posted by (C)オトジマ

ちなみに松瀬越えの峠道は2月17日より全面通行止めなので注意。
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P2153340 posted by (C)オトジマ

松瀬のあるお宅では大きな雪ダルマを作っていた。
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P2153342 s posted by (C)オトジマ

ゴルフ場そばでいつもイチゴを売っている門川のイチゴ農家の軽ワゴンがいた。今回は息子さんではなく、お母さんがおられた。1箱700円。
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P2153338 posted by (C)オトジマ

古写真 旭ヶ丘 沖田 塩浜

今回も黒木さん所蔵の写真、私の父が撮った写真、それに私が最近撮った写真で構成。

10号線ができたのは私が小学校に上がった年なので、それ以前にあのあたりがどうだったのか知らない。たぶん交通不便な松林と砂地の畑や荒地だったのではないか。現在の国交省国道事務所近辺に土地を持っていた私の伯母によれば戦後、縄で土地を囲い込んだ者が早い者勝ちで自分のものにできた、という話を聞いた事がある。

下は昭和22年の航空写真。まだ土々呂中がないし、もちろん10号線もない。(クリック拡大)
土々呂地区マップss

まだ旭ヶ丘が住宅地になる前の写真。撮影場所は現在の旭ヶ丘5丁目の旭ヶ丘サービスあたりから北を写したのだろうか。時期は不明。推測では昭和30年台はじめごろ、10号線が写ってないので目安が不明。夕刊デイリーの「伊形村の今昔」では昭和30年に地区の岩切さんを中心に区画整理をはじめ、松原町3丁目から旭ヶ丘へ呼称を変えた、とある。
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私は学校に上がる前、ココにあった「芋飴」屋に連れて行かれた覚えがある。当時はギョセンアメといっていた。サツマイモを持っていくと大きな板状のアメをくれた。以前にも書いたが、このギョセンアメという呼称は土々呂・伊形の超ローカル呼称なのではないだろうか。グーグル検索では私の既述しかヒットしない。

これも同じ地域。向こうの松林の中に日豊線と10号線が通っているはず。昭和35年くらいだろう。10号線の開通はこの年。ただの荒地にしか見えない。写っている子供は私である。
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asahigaoka 61 posted by (C)オトジマ

旭ヶ丘6丁目あたり。区画整理か集合住宅の建設工事かなにか行われている。右端に土々呂流学校の木造校舎が写っている。
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7 posted by (C)オトジマ

旭ヶ丘近辺の国道10号線建設工事。松林の中を貫いている。開通は昭和35年だからその前年くらいか。
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53旭丘 posted by (C)オトジマ

塩浜地区の10号線舗装工事。三瀬木材の前あたり。当時の舗装はコンクリート。5mくらい間隔で型枠を作っている。つなぎ目にアスファルトを埋めて、伸縮に対応したので、夏場は解けたアスファルトがグニャグニャとはみ出ていた。(私の父撮影)
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沖田橋 1960 posted by (C)オトジマ

沖田橋北詰の工事。すぐそばに日豊線が見える。向こうに赤水のゲンコツ山やトンバン山が見える。このころは公共工事には失対事業のオバちゃんが多かったなぁ。「失対・ニコヨン」も今は死語となった。(私の父撮影)
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沖田橋 1960-7 posted by (C)オトジマ

沖田橋建設工事。完成は昭和33年だとか。
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13 posted by (C)オトジマ

開通した10号線、沖田橋。向こうが旭ヶ丘方面。たぶん開通したので父が撮影に行ったのだろう。だから昭和35年だと思う。もちろん自転車で。当時の主な交通機関は自転車で土々呂から延岡の会社にはみんな自転車通勤。
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沖田橋 1960-1 posted by (C)オトジマ

橋から伊形方面を見る。(私の父撮影)
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沖田橋 posted by (C)オトジマ

橋から延岡方面を見る。日豊線を蒸気機関車が走ってるのでケムリが漂っている。(私の父撮影)
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沖田橋 1960-2 posted by (C)オトジマ

現在の様子。南道路のオーバークロスが出現。山は削られて低くなっている。
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okita-bridge posted by (C)オトジマ

上の写真の山の上から見下ろす。現在エクセルヒューマンの大看板が立っているところから。現在の清本鉄工旭ヶ丘工場(昔の中島鉄工所)のあたりは大きな松林である。(私の父撮影)
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沖田橋 1960-5 posted by (C)オトジマ

現在の様子。眼下を延岡南道路が通っている。延岡新港ができ、松林は雑木林となった。
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P2143300 posted by (C)オトジマ

夏は木が茂って見通しが悪い
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okita-panorama-s posted by (C)オトジマ

伊形方面には住宅がビッシリ
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P2143301e posted by (C)オトジマ

10号線開通直後の塩浜。日豊線陸橋の上である。この松林のあたりは現在のハッピーバリー事務局や宮交整備工場がある。原付にノーヘル・二人乗りというのがのどかな時代を感じさせる。(私の父撮影)
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沖田橋 1960-3 posted by (C)オトジマ

現在の同じ場所。
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siohama posted by (C)オトジマ

ずっと南下して現在の松原町、国交省国道維持出張所あたりから延岡方を望む。通っているのは自転車ばかり。当時はここらの土地はタダ同然だっただろう。人物は消してある。(私の父撮影)
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1962 10号線 松原-edit vanish posted by (C)オトジマ

この航空写真には土々呂中校庭に人文字で1969と書いてある。ということは私が在学中だからその人文字の中に私も混ざっているんだろうか。全く記憶にないが・・・ 一ヶ岡の造成工事が真っ最中である。(クリック拡大)
土々呂中1969


古写真 俯瞰で見る一ヶ岡造成事業

一ヶ岡団地の造成は1960年代末、昭和40年ごろに始まる。私にとってはそう大昔でもないという感覚があるが、団地造成以前を知らない世代が多くなっている今では十分に昔で、写真は古写真と言ってもよいだろう。
黒木さん所蔵の写真、私の撮った写真、ほかの印刷物由来の写真などで。

ちょうど工事が始まった頃のようだ。中央の旧国道を宮交バスが走っている。そのあたりが、現在のAコープ。
まずは沖田川から現在のファーツリーゴルフ練習場に至る幹線暗渠の建設が先行した。それにより、田んぼを縦横に走っていた水路や小川が姿を消した。
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59 posted by (C)オトジマ

上よりやや後。1970年ごろ私がタンク山から撮影した。工事が進展している。南北に貫く白い線は道路ではなく暗渠である。すでに北一ヶ岡2丁目あたりに住宅が建ち、3丁目の集合住宅もできているがまだAコープはない。
一ヶ岡 78
一ヶ岡 78 posted by (C)オトジマ

これは上よりやや後、南一ヶ岡4、5、6丁目あたりの造成工事。タンク山に水道タンクができている。土々呂小学校の講堂がまだ見える。現在の海咲ヶ丘あたりから撮影。
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1971 32e posted by (C)オトジマ

現在の同じ場所
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P2080274e posted by (C)オトジマ

南一ヶ岡5丁目から土々呂小方面。
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P2080275e posted by (C)オトジマ

1970年ごろのタンク山。まだタンクはできていない。人物を消してある。
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1970 31 e posted by (C)オトジマ

現在のタンク山。上の写真と同じ方向を撮影しているが海は全く見えない。
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CIMG6104e posted by (C)オトジマ

現在のタンク山は鬱蒼たる樹林に囲まれまったく展望はきかない。
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CIMG6105 e posted by (C)オトジマ

1970年代だと思う。タンク山から10号線方面を見下ろす。中央に建設省工事事務所。松林が元気がいい。
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matubara-1 e posted by (C)オトジマ

土々呂中。第二次ベビーブーム以前で校舎がたった1棟しかない!! その後1980年代に激増し一学年10クラスを超えた時期もある。テニスコートが2面ある。我々が在学中に女子テニス部新設のためコートを増設した。第二次ベビーブーム時代に校舎増設のため松林の海側にテニスコートが移設された。玉井酒販の大きな建物が中学校前に見える。いまはない。
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totoro jr high e posted by (C)オトジマ

1968年、土々呂中からタンク山方面を見る。タンクのできるのは右端。中央、吉田病院裏では一ヶ岡造成工事が行われている。前回ポストで高い山から遠望する写真があったが、それは中央の高い山だと思われる。
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1968 m e posted by (C)オトジマ

土々呂湾方面。岬ヶ丘(土々呂1丁目)の造成中。土々呂海水浴場の埋め立てはまだ。手前の建物は吉田病院。
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misakigaoka e posted by (C)オトジマ


これは1990年代ごろか。延岡新港も南の岩壁ができ、霧島台(土々呂2丁目)はすでに分譲済み、海咲ヶ丘(南一ヶ岡7丁目)が造成中。
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62 posted by (C)オトジマ

これは現在。
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totorofall e posted by (C)オトジマ

遠見山から一ヶ岡を遠望。
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CIMG6427e posted by (C)オトジマ

上と同じ場所の1960年頃。愛宕山はテレビ等建設による道路工事で山肌がむき出し。
遠見山 1960 e
遠見山 1960 e posted by (C)オトジマ


古写真 伊形

前回からの続き。黒木さん所蔵の古写真から伊形地域を撮影したもの。

私は土々呂で生まれ育った。おおむね土々呂小学校から北が伊形地区、以南が土々呂地区であった。車社会の今では隣接したごく狭い範囲であるが、徒歩生活の時代には伊形は遠いところだった。だから下の写真を見ても、どの家が誰の家やらさっぱりわからない。伊形の地付きの方々にはよくわかるだろう。一ヶ岡造成以前の大変貴重な写真。
伊形の方、以下の既述に間違いがあればコメント下さい。

現在の伊形小のある山から俯瞰。旭ヶ丘の市営住宅ができているところを見ると国道10号の開通後だろう。昭和30年代中ごろか。旭ヶ丘の住宅と伊形の集落の間には広い田んぼや湿地があった。現在でも北一ヶ岡1丁目の市営住宅群と旭ヶ丘の境には1mほどの段差があるのがそのなごり。写真を拡大してみるとその境目は樹林帯になっている。
55松原方面
55松原方面 posted by (C)オトジマ

角度を変えてやや北のほう。10号線の手前に松林が残っている。現在の「おぐら」あたりだろう。「おぐら」になる以前はドライブインがあって松林の中にあった。
51伊形小の山から
51伊形小の山から posted by (C)オトジマ

さらに北。沖田川河口方面。
54大福良
54大福良 posted by (C)オトジマ

愛宕山方面。正面の集落は石田。
49石田
49石田 posted by (C)オトジマ

永覚寺。これは炎尾神社の丘から撮ったようだ。
52永覚寺
52永覚寺 posted by (C)オトジマ

上から順に現在のグーグルマップに方向を落としてみた。
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現在の延岡南道路伊形トンネルの上にある山(標高220m)あたりから、土々呂湾、洋望崎方面。
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57 posted by (C)オトジマ

これは私が撮影したのではないか。父かも知れない。一ヶ岡造成直前で段々畑が放棄され始めた頃。現在の海咲丘の高台あたりから。
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1967 裏山 eee posted by (C)オトジマ

伊形、旭ヶ丘方面。中央に神社山が見える。こうやって見ると伊形は大きな集落だったんだなぁ。
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58 posted by (C)オトジマ

延岡方面。田の中を旧国道が白く見えて塩浜方面に抜ける。
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50 posted by (C)オトジマ

上の3枚を順にマップに落としてみた。
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これは炎尾神社あたりから神社山方面。
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60 posted by (C)オトジマ

伊形小の山から石田方面。現在はインターチェンジができて全く面影はない。
61南インター近辺
61南インター近辺 posted by (C)オトジマ

昭和30年代というと田舎でもカメラが普及しだした頃だが、人物スナップは撮っても、ありふれた風景を撮ることはそんなになかった。とても貴重な写真である。今ではどこの山も人が入らないので樹林が生い茂り、山頂に登っても展望がきかず、なかなかこんな写真をとるのは難しい。

黒木泰則さんは広く皆さんにこの写真を共有していただきたい、とおっしゃっておられるので遠慮なくダウンロードして結構です。

古写真 昔の土々呂2

前回のつづき。黒木さん所蔵の写真に私の父が撮った写真、私の撮った写真をとりまぜて。数年前にアップロードした写真と重複するものもある。

土々呂劇場。
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27 posted by (C)オトジマ

人々の服装からみると戦前のようである。木造3階建ての堂々たる建築である。私が子供の頃まで映画館として営業していたが、はたしてこんな立派な建物だったかなぁ? これを見て「わぁ、懐かしい!」という気が起こらないところをみると建て替えられたものなのだろうか? 私よりも5歳くらい年長の方なら私よりも記憶が確かかもしれない。

私の家は映画館から1kmほどあって、そう度々は行かなかったが、土々呂桟橋通りなど街中の人々は、テレビ普及以前は毎晩のように行っていたのではないだろうか。私は学校に上がる以前に、ここで「ゴジラ」や「赤胴鈴之助」や美空ひばりの股旅物を見た記憶がある。

土々呂桟橋通り商店街。戦前のお祭りの日のようである。現在のノモト衣料品店あたりから霧島山方面を見ている。
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17 posted by (C)オトジマ

看板を見ると「大阪朝日新聞」「・・写真館」「土々呂薬局」などが読める。私が子供の頃の記憶だと、この場所には右側には松浦鮮魚、荒物の田中商店、宮田精米所、戸田履物店などがあり、左側には吉田食料品、ノモト衣料、宮崎銀行などがあった。「土々呂薬局」は安藤さんの経営でこの場所ではなく、ここから海岸よりに200mくらい下ったところにあった。だからこの写真の「土々呂薬局」と同一経営かどうかは知らない。

現在の同じ場所。
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CIMG1429 posted by (C)オトジマ

国道10号線の舗装工事をしているようだから昭和35年ごろと思われる。トラックが右側を走っている。土々呂茶屋、いとや商店近辺である。私がかろうじて記憶している時代。この道路が出来る以前のことは全く知らない。
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23 posted by (C)オトジマ

ちょうど同じ時期の御番所近辺の10号線建設工事。今のプールのあたり。
古い土々呂 スキャン (13)
古い土々呂 スキャン (13) posted by (C)オトジマ

完成したころの10号線。めったに車は通らなかった。土々呂海水浴場前のバス停にあった松の巨木が見える。
東浜-1959
東浜-1959 posted by (C)オトジマ

上の写真よりもやや前と思われる。というのも松の巨木が10号線の反対側にも見えるからである。上では見えない。
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29 posted by (C)オトジマ

現在の同じ場所。激変している。
東浜2010-8
東浜2010-8 posted by (C)オトジマ

これは同じ時期、土々呂小の前を通っていたころの旧10号線である。今の県道。毎日リヤカーや天秤棒で物売りが来た。魚は土々呂から、野菜は伊形から。門川駅から宮崎方面に行く朝の列車にカンカン部隊の魚売りオバちゃんたちが大勢乗り込んでいたのはついこないだのような気がするが、最後に見て20年は経過しているかも。
東浜 5
東浜 5 posted by (C)オトジマ

大賑わいの土々呂海水浴場。鼻のないバスが見えるからすでに10号線はできている。昭和30年代半ばごろか。私が子供の頃で、夏は毎日泳いでいた。霧島山の松の木がもうなくなっている。
東浜-北から-ss
東浜-北から-ss posted by (C)オトジマ

昭和3年とある。土々呂海水浴場の古写真はいろいろと見かけるが、これは始めて見た。大変興味深い。霧島山に松の巨木。
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24 posted by (C)オトジマ

うれしいことに小さく私の生家が写っている。父はたくさん写真を撮っているが、面白いことに自宅の写真が一枚もない。昭和3年だから大昔ではあるが、ようやくここに見つけた。これは当然国道10号ができるはるか以前、日豊線開通から5年後くらいである。海岸の砂浜からいきなり日豊線築堤となっている。東浜集落は日豊線の向こうにあり、日豊線を堤防がわりにしているが、写真左端に1軒だけ築堤より海側の家が見える。どうやらこれが私の母の実家のようである。二階建てだったのかな。これも初めて見る。以前に書いたように、この家は昭和20年代の台風の高波で流されてしまい、やがて10号線の敷地となってしまったから、私は全く見ていない。

一月前にもアップロードした写真であるが、流される前の母の実家から見た土々呂湾である。人物は消してある。
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1952 御番所 hosei posted by (C)オトジマ

背景のトンバン山やブリ見山が上と同じように見える。同じ場所のやや桟橋寄りで土々呂漁港を撮影している。昭和30年代中ごろに埋め立てで岩壁が作られる以前は単なる砂浜であった。漁船は砂浜から突き出た桟橋にだけ接岸できた。その桟橋に直通する通りだから桟橋通りと言ったのである。盆にはその砂浜に櫓が立てられ盆踊りの輪が砂浜を埋め尽くした。村田英雄のばんば踊りはまだなく、歌い手が交代で正調ばんば踊りを一晩中うなっていた。「なーしが食いてぇバイ」と踊りの輪がいっせいに唱和したのは懐かしい思い出。流れ灌頂は桟橋から流した。
totoro port ships e
totoro port ships e posted by (C)オトジマ

現在の土々呂湾を俯瞰。
Totoro Bay
Totoro Bay posted by (C)オトジマ


以前に掲載した土々呂海水浴場風景を再録。夏は海の家や貸しボート屋で賑わう。行灯に新茶屋とある。延岡の寿司屋が海の家やボート屋を出していた。他に戸田ボート屋、山田ボート屋などがあった。以下昭和30年代。私の父撮影
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古い土々呂 beach-1 posted by (C)オトジマ

冬は海の家はクギ付けで閉鎖されさびしい浜辺だった。向こうでは大勢が漁船を降ろしている。
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totoro beach-poru posted by (C)オトジマ

当時は「出口」と言っていた今の東浜マンションのあたり。砂浜はここで一端途切れていた。浜伝いに土々呂から松原に抜けるにはこんなところを通らねばならなかった。大波の日には通れなかった。
古い土々呂 出口
古い土々呂 出口 posted by (C)オトジマ

これは幼い日の私。今のプールのあたり。海水浴場の南の端は磯場だった。
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東浜-土用-8 posted by (C)オトジマ

これは戦前の写真。昭和30年代からの記憶しかない私は洋望崎の看板は見ていない。
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totoro beach2 posted by (C)オトジマ


古写真 昔の土々呂

黒木泰則さん所蔵の古い写真のなかに土々呂の写真がある。夕刊デイリー掲載の古写真にはこれを元写真とするものもあるという。ネットで公開して多くの方に共有して欲しい、とのことでここに掲載する。
年代がはっきりしない写真が多い。皆さんで推測していただきたい。

撮影場所は土々呂駅の西の山の上だろう。日豊線がないからこれは明治時代まで遡る貴重な写真と思う。日豊線の開通は大正12年。驚くべきは洲ノ鼻から櫛津を回り、現在の清本鉄工所あたりに深く入り込んだ大きな入り江。
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18 posted by (C)オトジマ

古い地図を見つけた。日豊線はすでに開通しているが、まだ延岡市はなく、延岡町の時代。だから1920年代(大正末から昭和初期)の地図と思われる。この地図では江湖の入り江がしっかり記載されている。土々呂駅近辺まで湾入があり、霧島神社参道下にあった郵便局の前あたりは海である。ただし、このような小縮尺の地図はそれ以前の大縮尺の地図を元に作図されるので測量は明治期にあたるかもしれない。
ego no hama 明治map

清元鉄工所あたりは私が子供の頃までは江湖(えご)と言っており、湿地帯があった。柳田龍太郎の「元伊形郷土史」によれば、80年前に埋め立てられた、と記してあるが、その本の出版が昭和12年なのであるから、もしそうだとすれば江戸時代にまで遡る。しかし、このように入り江の写真があるのだから、そう遠くない昔の埋め立てである。写真と上の地図を参考に私が想像をたくましくしてグーグルマップ上に明治期の入り江と海岸線を塗りつぶしてみた。
ego bay 2

古代の地図、というのを見つけた。どのくらい古代なのかがわからないが、鎌倉、平安くらいまで遡るのではないか。それに現在の海岸線を青線で加えてみた。流川(現在の土々呂2丁目)は戦前までは僧都浜と呼ばれていたらしいから、鉄道の築堤ができる以前くらいまでは浜だったはずだ。年月とともに土砂の堆積や埋め立てで今のように陸地が広がったのである。だから江湖に大きな入り江があったとしても全然不思議はないのである。この地図を見ると船越峠はごく狭い陸端になっていて遠見半島を本土に繋いでいたことがわかる。このくらいの幅なら「船が超える」のもそう難しくもなさそうだ。
古代の土々呂海岸線 ss

清本鉄工所裏には往時の名残の湿地と葦原が今でも残っている。グーグルストリートビューより
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これは別の写真。これにも手前に入り江が見えている。上の古写真と同じ時代か。上では汽船が沖待ちし、これでは妙見あたりに停泊している。また共通なのが鯛名の山に松の大木が見える。戦後、10年ぶりに満州から引き揚げてきた私の母はあちこちの山を飾っていた松の大木がすっかりなくなってしまっていたので故郷に帰った気がしなかったそうだ。すべて昭和21年の枕崎台風で倒れたものと思われる。
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P6196427 e posted by (C)オトジマ

ちなみにコレは日豊線開通後の土々呂駅近辺サムネイル。クリックで拡大。向こうの山は霧島山。
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同じく土々呂駅。線路の向こうは現在の清本鉄工あたり。一面の田に見える。水面は見えない。
totoro sta-2 e


土々呂駅。向こうに霧島山。頂上に松の大木。
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これは私も見た事がある。当ブログにも掲載したことがある。拡大してみるとアミ処理されているので、出元は印刷物だろう。洲ノ鼻の入り江あたりの山から妙見橋方向を見下ろしている。戦前である。霧島山の頂上に松の大木がある。霧島山のふもとの山肌が露出しているのは日豊線建設によるものだろう。
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28 posted by (C)オトジマ

同じく妙見橋。木造である。妙見社に松の大木がある。
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26 posted by (C)オトジマ

三松公園から撮ったと思われる妙見の船だまり。桶川。埋め立てで大きな広場が出来ている。人々が野球をしている。写真が新しいので戦後だろう。鯛名に旭化成の石油タンクがないので昭和30年代前半か。
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19 posted by (C)オトジマ

上の写真の広場。1960年頃。現在の丸一運輸のあたりに大きなクレーンが見える。石炭の積み下ろしをしていた。現在のミノル園のあるところには旭化成の大きな石油タンク群があったのであるが、この写真では見えない。
妙見 網干し場 1960
妙見 網干し場 1960 posted by (C)オトジマ



延岡~上椎葉間の長距離索道

前回書いた、「上椎葉ダム建設記録」映画で私が見たかったのは資材運搬のための索道である。以前に当ブログでその索道のことを書いたことがあり、DVDを貸して下さった黒木さんも当初「索道の映像がありますよ」と連絡を下さった。

諸塚に住んでいた私の義父や義兄に聞くと、確かに昔、索道が諸塚を通っていた、とその記憶を語る。メンテナンスのための油さしの職人がバケットに乗っていた、とか途中の中継所で積載している資材をこっそり中抜きする輩がいた、とかエピソードを聞いた事がある。

下の地図は戦後間もなく米軍が日本統治のために作成した地図で、いまは失われた軽便鉄道や森林鉄道が記載されていることで、鉄道好きに知られているものである。しかしこれには索道は載ってない。そこで私が勝手に推測したルート図を記入してみた。送電線と同じで極力最短コースを通ったのではないだろうか。
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この索道は南延岡から上椎葉まで延々60kmにも及ぶ長大な索道である。現在からするとほとんど想像を絶するくらいのスケールである。しかし、延岡図書館でいろいろと郷土資料を調べたが、索道の存在はチラッと述べられてはいるが、詳細や写真がなかなかない。諸塚村史にごく小さな写真が一枚あるだけであった。たぶん九電の社史とか建設記録には書いてあるんだろうな、とは思っていたがそのまま放置していたのである。

期待して「上椎葉ダム建設記録」を見てみると、たしかに南延岡駅の索道の出発点の様子や、途中の山の上をバケットが動く様子が見られる。しかし残念ながら索道が見られるのは40分の映画中でわずかに20秒くらいか。しかし、貴重な動画である。索道に興味ある方(多分めったにいないだろうが)のためにそこだけ抜粋してみた。


以下はスクリーンショットである。日豊線南延岡駅に設けられたセメント倉庫
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上の倉庫跡地は現在興電社の社屋となっている。
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P2123291 posted by (C)オトジマ

ダム本体だけで10万トンのセメントが必要だった。当時の道路事情だとトラック輸送の方が高くついたのだろう。
上椎葉ダム建設記録 その4.wmv_000418084


コンベアでセメント袋が運ばれる
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バケットに積み込む。一台に7袋積んだと言っている。1袋30kgとすると約200kg。10万トンを運ぶためには50万台分という途方もない量である。
上椎葉ダム建設記録 その4.wmv_000435702

女性も働いている。
上椎葉ダム建設記録 その4.wmv_000444678

上椎葉まで8時間の旅の始まり。秒速2mだから時速7.2km。走るくらいだ。60kmをおよそ8時間くらいか。
上椎葉ダム建設記録 その4.wmv_000448848

向こうの山は愛宕山だろう。バケット間隔は40秒だから80mということになる。概算すると、延岡~椎葉間に片道で750個、往復で1500個ぶら下がっているいることになる。
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同じ場所の現在。今のトップバリューあたり。
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P2123293 posted by (C)オトジマ

山の中をすすむバケット。ラインは片道1本しか見えない。
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はるか高い鉄塔の上に架線とバケットが見える。これは椎葉だろうと思われる。この1本の鉄塔を見ただけでもすごい施設だということがわかる。
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椎葉側の端末。
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この映画のナレーションでは「耳川索道」と言っている。戦前に塚原ダムが作られたときに既に延岡からの索道は張られていた。harbyさんの指摘ではケーブルは塚原で一端途切れていたらしい。その延長として塚原~椎葉間を新設したのだろう。塚原ダムの着工は1935年で上椎葉ダム着工の15年前である。塚原ダムも当時としては日本最大級で、国際的にも最新技術で施工されたもので、土木業界では有名な歴史的ダムだそうだ。その時にはセメントや砂、鉄筋はもとより、食料なども40kmも離れた延岡から索道で運んだ、とコチラに記載がある。当然、今の緑ヶ丘あたりの長浜の砂だったのではないだろうか。しかし、上椎葉ダムの時には、現場に骨材工場を設置して砂から大粒の砂利まで最新の機械で製造している。

子供の頃、自分で索道を作って遊んでいたものである。子供の頃の憧れは年を取っても消えることはない。耳川索道をリアルタイムで見たかったなぁ・・・・
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コチラには現在も稼働中の茨城県のセメント工場の索道の動画がある。延長4kmくらいらしいから耳川索道に比べたらごく短い。



上椎葉ダム建設の記録

前回記したように、黒木さんから「上椎葉発電所建設の記録」のDVDをお借りした。郷土史・産業史としても貴重な映像である。製作後60年以上経過し、著作権関係も問題ないだろうということで、死蔵していてももったいないのでYoutubeで公開することにした。「上椎葉ダム建設の記録」というタイトルで40分を6分割してアップロードした。興味ある方は是非ご覧になっていただきたい。

そのはじまりは、着工以前の椎葉の様子である。それもカラー映画なのである!戦後間もない物資のない時代に高価なカラーフィルムで撮影するなんてなんという贅沢だ。まだ九州電力発足前で、戦時統合でできた巨大企業、日本発送電時代のものだからだろうか。今から65年前の椎葉の生活の様子を垣間見ることができるので、年配者にはなつかしいだろう。


見るのが煩わしい人のためにスクリーンショットで幾枚か抜き出してみた。動画で見るとそこそこ見れるのであるが、静止画にするとかなりオボロゲである。

先遣隊だか測量隊だかが椎葉に来るところだろうか。
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椎葉のどこだかはわからないが・・
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水没地の看板。ワラ葺き屋根の農家が見える
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トウモロコシの取り入れ
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子供も働いている
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川でたくさんの子ども達が遊んでいる。この子ども達は現在70代くらいか。
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水没住民が引越しをしている。
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国道までは車道はなく、牛や人力で家財を運ぶ。男はまだ兵隊服を着ている。
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鶴富屋敷やヒエ搗き節などの観光案内もある。
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準備工事が始まる。
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それ以降の「本工事篇」はモノクロとなる。
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これは「その2」、本工事篇。工事の詳しい様子が描かれる。興味ある人にはきっと面白いと思うので続きの5本はご自分でYoutubeでご覧になって下さい。


土々呂小学校の古い写真

先日、当ブログへ元県議の黒木泰則さんからコメントをいただいた。私が以前書いたことのある上椎葉ダム建設工事の延岡ー椎葉間の索道に関する映像がある、とのことであった。さっそく伊形のお宅に伺ってみた。上椎葉ダム建設工事の記録映画をお持ちで、60年以上前九電が作ったもので著作権もないだろうから、一般に公開して貴重な資料を共有できないだろうか、と言うお話であった。九電が作っているので自治体にはフィルムとして保存されているかもしれないが、たぶん死蔵。九電のホームページにはムービーチャンネルというのがあり、そこでは以前は公開されていたようだが、現在では更新されていて見れないようだ。黒木さんのおすすめもあるのでいずれ私がYoutubeにアップロードしたいと思う。

さて、黒木さんは伊形・土々呂の古写真も持っておられた。中には私も持っている写真、ネット上で以前から見かける写真もあるが、初めてみる貴重な写真もある。土々呂・伊形限定の方にしか興味はないであろうが、貴重な郷土の資料として共有したいと思う。私の手持ちの写真も含め、過去にアップロードしたものもある。

まずは土々呂小学校関連の写真から、新旧とりまぜて。

これはたぶん戦前もかなり前の写真。学校の向こうに背の高い松並木が見える。旧国道沿いのものだろう。
土々呂小
土々呂小 posted by (C)オトジマ

昭和13年(1938年)。私が昭和30年代に在校した頃にはこの校舎と講堂であった。しかし、女教師が着物を着ているのも時代を感じさせるし、セーラー服を着ている女生徒は高等科だろう。私には制服の時代的状況がわからないのでなんともいえない。私の兄の昭和20年代に卒業写真を見ると女子はおおむねセーラー服を着ているから、戦後も女子小学生はセーラー服が当たり前だったのかもしれない。現在70代の人々に聞かないとわからない。
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土々呂小 posted by (C)オトジマ

これも昭和13年の女子クラスとキャプションがある。全員セーラー服である。高等科だろう。高等科は現在の中1、中2に相当する。
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syouwa13-girls posted by (C)オトジマ

昭和27年ごろと思われる。私の兄のクラス。男子はガクラン、女子はセーラー服である。卒業間近なので中学校のセーラー服なのかな? それとも戦後の物資不足の時代だから、戦前の高等科のセーラー服のお下がりか。70代前半の方々なのでおおかたご存命だろうから、顔にはモザイク処理してある。
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img243m posted by (C)オトジマ

上の学年が低学年のころ。終戦から間もないころか。履き物に注目して欲しい。ゾウリ、ゲタが多い。雨の日には裸足で通学というのも当たり前だった時代。
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img244m posted by (C)オトジマ

これも昭和13年ごろ。松の巨木の林が目を引く。日豊線の向こうで、現在の10号線上である。戦後すぐの枕崎台風でおおかたは倒れてしまい、数本だけが戦後しばらく残っていた。そのうち1本は雲をつくような巨木で昭和40年ころまで残っていたが、マツクイムシにやられてしまった。
土々呂小
土々呂小 posted by (C)オトジマ

昭和13年。朝礼のようす。男子の半ズボンがノビタ君やカツオ君みたいな短いものではなく、正ちゃんや現在の男児のように膝丈。クラスが男女混合ではない。着物の女教師もいる。校庭の向こうに土手や田畑がある。山の一部が壊れているのが気になる。私の記憶では段々畑があった、
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土々呂小 posted by (C)オトジマ

これは昭和30年代末ごろだろう。私が小学生の頃、父が撮っている。向こうの山はまだ造成されていない。
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1962__60 posted by (C)オトジマ

私が高学年の頃にはベビーブームは過ぎたとはいえ、まだ生徒数1200名ほどいたから運動会は盛大だった。
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1963 63 posted by (C)オトジマ

あの鼓笛隊の中で私が大太鼓をたたいている。背後はミカン山であった。
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1964 66 posted by (C)オトジマ

昭和35年ごろか。土々呂小と土々呂中が両方見える。すでに10号線が出来ている。手前のタンボは土々呂中の学校田で中学生が田植えや稲刈りに来ていた。私の父撮影。
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東浜-土々呂小-3 posted by (C)オトジマ

同じアングルで昭和12年。10号線がない以外はそんなに違わないかな。
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img256 posted by (C)オトジマ

同じく昭和35年ごろ。左手が土々呂小校庭。日豊線を蒸気機関車が走っている。私の父撮影。
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img129 posted by (C)オトジマ

同じ場所の戦前の写真。松の木が異なる。
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totoro-bay-12 posted by (C)オトジマ

昭和47年というと私は卒業しているから、取り壊し直前くらいか? 大きくて立派な講堂だった。
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img257 posted by (C)オトジマ

天井裏や床下が広大で、悪ガキたちが冒険するには天国だった。いまだに奈落の下や天応裏で遊んだことが夢に出てくるくらいだ。
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img253 posted by (C)オトジマ

講堂裏のミカン山から私の父が撮影。運動会ではこのミカン山で弁当を食べた。右に消える建物には2教室があって、「離れ校舎」と呼んでいた。私が4年生の時はここで過ごした。遊具が近いので楽しい校舎だった。ミカン山との間の田の跡が大きな水溜りとなってイモリがウジャウジャいた。
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土々呂小-1960 posted by (C)オトジマ

現在の校庭。このあたりに講堂があった。このイチョウの木は上の写真にもあるはずだ。
土々呂小 いちょう (2)
土々呂小 いちょう (2) posted by (C)オトジマ

昭和14年とある。
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img259 posted by (C)オトジマ

黒木さん所蔵の写真であるから、土々呂小なんだろう。テレビが導入された時。昭和30年代半ば頃か? 私が在学中にもこんなふうにテレビを見る時間があって、楽しみだったが、これよりも大きなテレビがあったような気がする。誰先生なんだろうか?
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昭和43年、改築前。
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img258 posted by (C)オトジマ

その後の校舎。
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さらに改築されて3階建てになった現在の土々呂小。
土々呂小 (2)
土々呂小 (2) posted by (C)オトジマ

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cherry tosyo s posted by (C)オトジマ

捜せば私のコンピュータ内にはまだまだ土々呂小関連の画像がありそうだが、またいずれ出すことにする。
写真を提供いただいた黒木泰則さん、ありがとうございました。


立野ウォーキングコースの梅 その2

前回からの続き

浄土寺の横に墓地があり、駐車場とトイレがある。ここはコースの真ん中あたり。トイレはココしかないので、不安のある人はここに車を置いて回ってもいいだろう。
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P2023231 posted by (C)オトジマ

寺の前の消防小屋がいい味出してます。
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P2023229 posted by (C)オトジマ

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P2023230 posted by (C)オトジマ

柿の畑もある
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P2023234 posted by (C)オトジマ

車で回ったら見れない梅林の中の作業道。よく手入れされている。
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P2023249e posted by (C)オトジマ

枝の剪定が重要なのだろう。上に高く伸びると実の収穫が大変になる。
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P2023244 posted by (C)オトジマ

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P2023258 posted by (C)オトジマ

要所要所に道しるべがあるので安心だ。
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P2023265 posted by (C)オトジマ

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P2023260 posted by (C)オトジマ

大きなため池がある。湖面が見たいが周囲はおおむねヤブなので見渡せる場所はわずかしかない。池の周回路があるといいだろうな。ヤブの伐り払いが大変だろうが。
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P2023261 posted by (C)オトジマ

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P2023263 posted by (C)オトジマ

最後は田のなかの道となる。
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P2023268 posted by (C)オトジマ

ゴールはすぐそこ。途中、お寺の境内で弁当を食ったので時間をくって3.3kmに2時間かかってしまった。
坂道がないので高齢者でもラクに回れそうだ。心安らぐ里山散歩であった。
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P2023270 posted by (C)オトジマ

立野のウォーキングコースは4年前に地区の梅農家の黒木さんが中心になって立案された。この地区にはウメ農家が20戸もある県内一のウメ産地だそうだ。以前からウメの花のシーズンには来訪者が多かったが、それならきちんと整備して見てもらおう、ということになったという。コチラに黒木さんに関連する記事があるので参照。

いまはウメの花こそ満開だが景色は冬枯れだ。新緑の頃、ウメの実が実るころもまた美しいのではないだろうか。公式サイトはないようなので、駐車場にあったコースマップを再度掲載する。
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立野のウメ

2月2日。今日はほどんど春日となった。あまりに暖かいので「こりゃ、ウメが満開だぞ」と先週訪れた都農の「立野ウォーキングコース」に出かけることにした。途中、美々津ゴルフ場近辺で見事なヒカンザクラが満開。向こうは来月開通する高速。
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P2023166 posted by (C)オトジマ

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P2020172 posted by (C)オトジマ

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P2020178 posted by (C)オトジマ

立野ウォーキングコースは尾鈴オレンジロードと呼ばれる広域農道沿いにある。広域農道沿いにのぼり旗が並んでいる。



駐車場にはすでに数台の車が止まっている。3.3kmのコースはほどんど車道なので車でも回れるが、やはり歩きたい。
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P2023170 posted by (C)オトジマ

ウメはちょうど見頃といっていいくらい花盛り。
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P2023173 posted by (C)オトジマ

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このコースはほとんど梅林の中に設置されている。よく手入れされた梅林もあればこのように荒れ放題のところもある。
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P2023185 posted by (C)オトジマ

向こうに見えるお宅の庭に上がって年配のご主人と話をした。都農の街中に住んでいて、これは別荘だとか。1000坪の敷地があって庭や池を作って楽しんでいるとか。うらやましい悠々自適の別荘ライフだ。でも週に2.3度しか来ないという。
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P2023171 posted by (C)オトジマ

梅林の向こうに高速の都農インターが見える。
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P2023182 posted by (C)オトジマ

今日はウォーカーが多い。とはいってもチラホラだが・・・
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P2023181 posted by (C)オトジマ

周回路は等高線に沿っていて高低差がないのでラクだ。
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P2023195e posted by (C)オトジマ

この農家に庭先でミカンや梅干を直売していた。ここのお方がどうかは知らないが、地区の有志が旗を振ってウォーキングコースを設定したとか。ポイントポイントに案内板を設置したり、のぼり旗をたくさん立てたり、駐車場を整備したり、お金にもならないのに大変だ。歩く途中で買い物すると荷物になるから、駐車場に農産物販売書を設ければいいのに、と思うが・・・ 。来訪者はせめてお礼に野菜くらいは買うだろう。梅干はやや高い。
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あまりに暖かいのでこんな木陰になるとほっとするくらいであった。
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途中に寺がある。浄土宗浄土寺。美々津の専修寺の出店のようで、無住。
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P2023226 posted by (C)オトジマ

地蔵にもウメの花があがっている。
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P2023227 posted by (C)オトジマ

ここのウォーキングコースは梅林の中を歩くわけだから、まさに今が旬。2月いっぱいは楽しめるのではないか。興味ある方はぜひどうぞ。タダです!! コース後半は次回。

津々良林道再び

門川町津々良から延岡市沖田ダムまで山越えをする林道がある。数年前に車で走破したことがある。昨年行ってみたら土砂崩れ、大規模崩落で不通になっていた。さて今はどうなっているのか、と原付で行って見た。入り口から出口まで約10kmに人家はまったくない。

国道388号から津々良川沿いに町道に入る。
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P1313131 posted by (C)オトジマ

津々良川は完全に枯れ川となっている。
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P1313132e posted by (C)オトジマ

廃田が多い。ここらの川には子供が小さい頃には毎日のように泳ぎに来ていた。その頃にはここは緑なす美田だった。
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P1313133e posted by (C)オトジマ

廃屋も目立つ。
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P1313134 posted by (C)オトジマ

廃屋と廃田。かなりまとまった耕地であるが、もったいない。いまや山間部の農業は動物との戦いだから大変だろう。
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(C)オトジマ


舗装が途切れると林道の起点。ここから下流が津々良川になっているようだ。たったの3km?ここからも数キロ上流があるのに。
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P1313137 posted by (C)オトジマ

ここらはまだ轍が新しく走りやすい。林業作業の軽トラも見かけた。ほとんど県有林である。
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P1313138 posted by (C)オトジマ

奥に行くにつれ、道路状態は悪く、乗用車では不安になるだろう。原付ならなんなく走破。
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P1313140 posted by (C)オトジマ

昔は数戸の集落があったという。門川町に属し、戦後しばらくまで林道のない時代、子ども達は山越えの踏み分け道で上井野の西門川所学校に通学していたという。今では想像を絶する。そこに墓地だけ残っている。不思議なことにこの墓地は何度見てもきれいに掃き清められ、シキミや造花が供えられている。町場の墓地にも無縁墓が増えているのに。
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享保年間の墓。なんと300年前には集落があったということ。
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P1313144 posted by (C)オトジマ

集落跡近辺。杉の造林がないので明るい。
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峠の上の門川・延岡市町境。ここだけセメント舗装されている。
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P1313147 posted by (C)オトジマ

大規模崩落していたところがセメント吹きつけで修復されている。
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別の崩落が発生している。軽トラなら通れる。ここらは岩が赤い。
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このように細かいクズになる。いかにももろい岩である。
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P1313151 posted by (C)オトジマ

林道終点、というか延岡側の基点。いちおうバリケードで通行止めになっている。ロープをはずして通過した。
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P1313152e posted by (C)オトジマ

沖田ダム。
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P1313153e posted by (C)オトジマ

沖田ダムの下にある小野の集落ではウメが満開。
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P1313154 posted by (C)オトジマ
プロフィール

トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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