五足の靴~天草~

天草を旅したので関連で「五足の靴」について。
gosoku books

「五足の靴」は1907年(明治40年)に与謝野鉄幹と彼の主宰する雑誌「明星」の新詩社同人であった4人の学生(北原白秋・木下杢太郎・平野万里・吉井勇)が九州旅行をした折の紀行文で、当時、「東京二六新聞」に連載された。明治末、日露戦争の2年後である。

鉄幹だけが35歳で背広、他は22歳前後で学生服だったとか。鉄幹が親分で他は子分であるが、紀行文からはそんな上下関係は余り感じられない。執筆は交代でしたのでどこを誰が書いたのか詳細ではないが、読んだだけでは誰だかわからない。つまり全員とても筆が立つ、ということ。まぁ、いかに若いとはいえ、錚々たる顔ぶれではある。

鉄幹は全国の同人や読者との交歓を兼ねて度々若い者を連れて旅行している。この時にはたまたまこの顔ぶれになったということ。旅はほとんど物見遊山ではあるが、この時には木下杢太郎が事前に予習をしている。彼は南蛮文化やキリシタンに興味を持ち、旅の間も彼の熱意でその関連の地を重点的に回っている。

白秋の実家の柳川を拠点にして回った。
gosoku 3

この旅の後で彼らは南蛮趣味の詩作を生み出し、一時文壇に南蛮趣味が流行する契機となった。代表例は北原白秋の「邪宗門」である。

「邪宗門」を読んでみても正直言って私にはあまり面白いとも思えない。その中から白秋が五足の靴で歩いた大江近辺に関連ありそうな詩をあげてみる。振り仮名を省いているが妙な読みの字ばかりなので詳細は「青空文庫」を参照のこと。

---天艸雅歌---

角を吹け

わがともよ、いざともに野にいでて
歌はまし、水牛の角を吹け。
視よ、すでに美果実あからみて
田にはまた足穂垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角を吹け。
いざさらば馬鈴薯の畑を越え
瓜哇びとが園に入り、かの岡に
鐘やみて蝋の火の消ゆるまで
無花果の乳をすすり、ほのぼのと
歌はまし、汝が頸の角を吹け。
わがともよ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄樹の汁滴る邑を過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き袈裟
はや朝の看経はて、しづしづと
見えがくれ棕櫚の葉に消ゆるまで、
無花果の乳をすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角を吹け、
わがともよ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水牛の角を吹け。


ただ秘めよ

曰ひけるは、
あな、わが少女、
天艸の蜜の少女よ。
汝が髪は烏のごとく、
汝が唇は木の実の紅に没薬の汁滴らす。
わが鴿よ、わが友よ、いざともに擁かまし。
薫濃き葡萄の酒は
玻璃の壺に盛るべく、
もたらしし麝香の臍は
汝が肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、汝が父に、
よし、さあれ、汝が母に、
ただ秘めよ、ただ守れ、斎き死ぬまで、
虐の罪の鞭はさもあらばあれ、
ああただ秘めよ、御くるすの愛の徴を。


どうです? あまり面白くはないでしょう?

「五足の靴」は広島・宮島から始まり、日向・薩摩・豊後を除いた九州北部の紀行。そのうち天草の部分だけ読んでみる。
一行は1907年8月19日、長崎・茂木港から汽船で富岡に渡った。海が時化て船旅が苦しかったことはくどくど書いてあるが、富岡のことはアッサリとしか書いてない。荒れた外洋から富岡港に入るととたんに海が静かになった、とある。曲崎の砂嘴があればこそである。富岡に一泊する。

富岡港
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PA256677 posted by (C)オトジマ

翌日、富岡から大江に向かう。隠れキリシタンの集落であることを事前のリサーチで調べていたからだろう。道のりは8里。約30km。グーグルマップで調べると徒歩で国道経由7時間ほど。しかし当時はまともな道はなかったようだ。海岸の岩伝いに歩いたりしている。風景よりも途中の路上で見た蛇がガマガエルを捕らえていた様子を詳しく書いている。

「五足の靴」でも振り返れば遠くに富岡半島が見える、と記している。きっとここらだろう。都呂々地区。
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PA256714 posted by (C)オトジマ

途中で小さな炭坑を見ている。天草下島にはたくさんの小規模な炭坑があって、江戸時代から採掘されている。牛深にあった魚貫炭鉱が比較的大規模であった。天草はきわめて良質の無煙炭を産出することで名高かったが、エネルギー革命で1970年代までにすべて閉山している。富岡周辺にはいくつも坑口があって志岐炭鉱と呼ばれ、炭鉱鉄道もあったとか。五足の靴一行が見たのは苓北火力の南にある都呂々地区でのことのようだ。調べてみると都呂々には新小松炭鉱と竹ノ迫炭鉱があったことがわかる。

炭坑の分布図。
coal 天草炭坑


昼には下津深江(下田温泉)に着き一休みしている。記述はほんのわずか。それも農業関係の集まりがあってどこの旅館でも断られた、みたいな話。温泉の様子は全く書かれていない。しかし、今じゃ、彼ら超ビッグネームがここを通過しただけなのに便乗している。なんと下田温泉には現在「五足のくつ」という温泉旅館まである。コチラ参照
simoda spa s

山越えで高浜に至ったのが夕刻。そこから大江までは再び山越えだが1里しかないので夕暮れを押して出発した。しかし真っ暗な山道で道に迷う。万事休した時にたまたま犯人捜索中の高浜の駐在と出会い、案内を請うて夜10時に大江に着いた。
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PA256717 posted by (C)オトジマ

一行は「パアテルさん」に会うことを切望していた。白秋は文中で「バアテルさんは何処にいる」という詩を書いている。個人名かと思っていたら神父のことであった。英語でいうパードレである。当時大江には在15年になるフランス人のパアテルがいた。翌日彼らは教会を訪れてパアテルからいろいろ説明を受けている。もちろん現在見れる美しい白亜の天主堂ではない。パアテルは地の言葉が巧みだ、と言っている。明治時代のこととて標準語は普及しておらず、地元の人の言ってる事はなかなか聞き取れない、とも書いている。

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PA256729 posted by (C)オトジマ

大江では天草一揆後にキリシタン取締りが激しくなり、ほとんどの住民は転んだ。しかしその中でも二百数十年間、二、三十戸が秘かに信仰を守っていた。五足の靴一行が訪れた頃は大江・崎津でそれぞれ約400名の信者がいたそうだが、その多くはあらたにパアテルが布教して獲得した新たな信者であった。もちろん古来の信者も週一度の礼拝には参加していたが、どういうわけか彼らは土曜礼拝だったそうだ。

一行はウラ寂れた崎津から船で牛深に回る。下は現在の牛深。
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PA256773 posted by (C)オトジマ

牛深で一泊し翌日は船で三角へ。

さらに三角から船で島原に渡る。その一文が「有馬城址」である。一行は天草・島原一揆を偲んで「有馬城」を訪れた。城の石垣は草ボーボーで一面が桑畑になっていた。その点は今の原城と同様なので兵どもが夢の跡を偲ぶ点ではそう違和感はない。しかし、石垣や堀の間に中学校や監獄がある、という点で読者は「おや、おかしいな。間違っているんじゃないの?」と気づく。文には原城という城もある、という言及もあるが、筆者はその区別がよくわからずに、島原城が天草・島原一揆の決戦の城だと早合点しているのだ。今と違い島原城は復元された天守閣もなかったし、観光地でもなかったので気づかなかったのか。迂闊なことであるが、当時の掲載紙・二六新聞の校閲もいい加減だったのだろう。

島原城。1964年復元なので五足の靴一行はもちろん見てない。
島原城天守
島原城天守 posted by (C)オトジマ

これは原城。畑の中にある。4年前の写真。
原城
原城 posted by (C)オトジマ

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Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
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お金がないので遠くには行けない。
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