賀来飛霞

諸塚にある妻の実家は旧家である。山の斜面にへばりつく僻村であるから旧家と言っても裕福には程遠く、長年続いた歴史も風前の灯。後継者はなく廃屋となる日も遠くないだろう。
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P8048531 posted by (C)オトジマ

かつてはカヤ葺き屋根だった。
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P8048486 posted by (C)オトジマ

家業は昔から木炭やシイタケを含む林業である。平地がないので農作物は自家消費分くらい。集落には戦時中に用水ができて猫の額ほどの水田が拓かれている。
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P8048514 posted by (C)オトジマ

敷地の一角に「賀来飛霞宿泊弁指之跡」という石碑が建っている。雑草に覆われ何だかよくわからないが・・・
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P8048541 posted by (C)オトジマ

これは25年ほど前の状態。
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May21~38 posted by (C)オトジマ

賀来飛霞(かくひか)とは江戸時代末から明治初期にかけての本草学者である。1816年、現在の豊後高田市で医師の家庭に生まれた。医業の延長で本草学を学び、薬草採集のために全国を歩いた。その旅行記が多数の採薬記として残っている。日向国には1841年に訪れ、「高千穂採薬記」を著している。(鉱脈社刊の復刻版)
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P8068547 posted by (C)オトジマ

弁指(べんざし)とは九州地方、とくに豊後・日向地方で庄屋を補佐する村役人のこと。賀来飛霞がこのあたりにやって来た時、この家に宿泊した。賀来飛霞はここを訪れた時のことを高千穂採薬記」にこう書いている。(クリックで拡大)


地域の庄屋宅がはなはだ遠いので、やむなく弁指の家に泊まること。主の風体、まだ屋敷が新しいこと、立派な木目の一枚板の戸、床の間の置物、ヘタクソな書、まかないに出た男達のことなどを記している。ということはこの家はおよそ200年近く経っているということ。今でこそ日向市から車で1時間半で着くが、昔は尾根伝いの山道で延岡から2日はかかったのではないか。こんな僻地にも延岡藩の支配は細かくいきわたっていたのである。

この集落で撮った賀来飛霞とは無関係な写真。
下は数年前の一斉地方選挙の村のポスター掲示板。
珍しいので写真に撮った。ここでは候補者たちは談合して同じポスターを作り、経費節減している。選挙運動も談合の上、一日おきと決まっている。一番下にいる黒木正一氏は現在県会議員に出世している。
P1010054
P1010054 posted by (C)オトジマ

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No title

賀来飛霞が奥様の里「諸塚」を訪れていたのですね。そういうところで顕彰していただいていることで出身地(大分県国東半島)側も偉人として評価されていることを再認識します。
昨年7月に訪れた佐田神社では…従弟の惟熊と挑戦した大砲の製造って結構大変だったことを知りました。

No title

まだ国道が舗装されていないころ、親のおんぼろ車で諸塚に行っていました。美しい山々とは思わなかったけれど、村の人は本当に優しかった、よそ者へでも会釈をしていた。
現在は親戚の一部しか残っていません。
田舎なのにピカピカの国道と思っていたら、その国道も艶が無くなっている。ああどうなるのでしょうか。

ミワ君へ

遠からず消滅するんじゃないでしょうか? スギの価格が安い、シイタケの需要も減退し中国産が安い。従来型公共工事と老人介護だけが働き口。つまり村自体には富を生む手段がなく、ヨソから来た金だけで回る経済なんて不健全です。ここらでは若手とは60歳前後の人たちなんです。

じなしさんへ

そうなんです。延岡藩の飛び地や賀来飛霞など、意外なところで豊後高田つながりですね。とにかく日向というところは文化果てる所で、文化人・学者がほとんどいません。キラボシのごとくに江戸時代の学者が居並ぶ豊後とはエライ違い。その日向のなかでもとりわけ僻地だった地域だけに賀来飛霞の来訪は大事件だったのではないでしょうか。
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トトロのとなり

Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
日豊地域での見聞を中心に徒然を記す。
お金がないので遠くには行けない。
お金がないのでグルメ記事はなし。

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