豊後森 三島公園・末廣神社

豊後森の古い街並の北のはずれに三島公園と末廣神社がある。
三島公園は元来は藩主御殿のある森陣屋と呼ばれた場所。

手前の池は「旧久留島氏庭園」大きな石碑は「童話碑」。背景の山は大岩扇山。

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P9229108 posted by (C)オトジマ

旧久留島氏庭園。昔のお殿様の庭。
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庭園から山の斜面を登っていく道がある。
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登りきったところに栖鳳楼(せいほうろう)がある。これは1832年に8代藩主通嘉(みちひろ)によって建てられた茶屋である。10年ほど前に保存修理工事がなされている。ここからは九重連山や城下が見下ろせるので、実質天守閣的な機能があったとか。
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森の町を見下ろす
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石を多数配した庭園がある。
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こんなに大きな石臼も埋められている。とても人力では回せないくらい重いはず。大宰府の観世音寺の碾磑 ( てんがい )なみ。
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栖鳳楼から一段あがると、広い境内の末廣神社がある。
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藩主が建てた神社だからとても立派。
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文政十二年銘の狛犬。1829だから約200年前。
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ここにも砲弾が奉納されている。奉納年が読みづらいが、昭和29年5月、重量207kgとある。奉納砲弾は通常日露戦争の凱旋記念が多いものだが、敗戦後9年もたっての奉納ってありうる?敗戦記念か?
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拝殿内にある随身。
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神社拝殿を見ると必ず絵馬や三十六歌仙がないかチェックするくせがある。ここには素晴らしい三十六歌仙がある。レリーフである。
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右:伊勢:三輪の山いかにまち見む年ふともたづぬる人もあらじとおもへば
左:紀貫之:桜ちるこのした風は寒からでそらにしられぬ雪ぞふりける

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右:凡河内躬恒:いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る
左:柿本人麿:ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島がくれ行く舟をしぞ思ふ・・・・・だと思う・・・達筆すぎる・・・

などなど・・ おそらく江戸時代の流行だから墨が消えかかっている。貴重な文化遺産だが、ここにあらばこそ、だろう。

他にも多数。当然36人分揃ってるが以下略。
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立派な板絵も奉納されている。残念ながら歌舞伎や古典に造詣がないので何の絵やら判別しがたい。
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実はこの神社がいわくのある神社なのである。

ウィキペディアによれば----

慶長6年(1601年)、来島長親によって玖珠郡などを所領とする豊後森藩が立藩された。来島氏はその格式のため城を持つことが許されなかったため、長親はそれまで玖珠の拠点とされてきた角牟礼城を廃して、角埋山の山麓に陣屋を置いた。
陣屋の敷地内には、来島氏の故地である伊予大三島の大山祇神社の祭神を勧請して三島神社(末広神社)が造営されていたが、天保8年(1837年)、第8代藩主の久留島通嘉が、三島神社の改築を口実として、石垣や茶屋の「栖鳳楼」(せいほうろう)を増築するとともに、藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園を造らせ、城構えのように整えた。
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城持ち大名ではなかった久留島通嘉が神社建立にかこつけて実質的な城を作った。ということ。実際、神社の周囲は堅固な石垣に囲まれていて、予備知識がなかったら城と思い込む人も多いだろう。

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P9229170 posted by (C)オトジマ

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以前のポストでNHK時代劇ドラマ「酔いどれ小藤次」について記した。---コチラを参照---

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ドラマの原作となったのは佐伯泰英の「酔いどれ小藤次留書」シリーズ。以前のポストから引用する---

「酔いどれ小藤次留書」第1話「御鑓(おやり)拝借」は物語の発端である。この巻ではわずか1万2000石の小名、久留島氏が城無し大名だったことが物語の重要な鍵となっている。江戸城中で西国の諸侯、森藩久留島、赤穂藩森、丸亀藩京極、肥前小城藩鍋島、臼杵藩稲葉の各大名が同席したおり、稲葉雍通(てるみち)は久留島通嘉が城を持たぬことを愚弄し、他の3人も同調した。久留島通嘉はその恥辱を忍んだが、ある機会に本来目通りかなわぬはずの最末端下士・厩番の赤目小藤次にふと洩らす。後日、小藤次は離藩し秘かに藩主の無念を雪ぐべくたった一人で四藩を敵に回し報復を画する・・・・

この物語に出てくる藩主・久留島通嘉は例の石垣を作ったり栖鳳楼を建てた人物。造営工事のための苛斂誅求のせいか、彼の代には大規模な百姓の逃散が起こっており、当時は評判は悪かったとか。今ではこうして森の観光資源となっている。もちろん物語はフィクションであるが、この本を読んだ時から、一度ここを訪ねてみたかったので念願がかなった。

玖珠町も由来がピンと来ない「童話の里」よりも「酔いどれ小藤次の里」で売り出した方が観光客が来るんではないか?久留島記念館の係員の方も「是非、竹中直人に来て欲しい」と言っておられた。彼はNHKドラマ中で森藩ではなく「九重藩」となっていたことに対し、「事実と異なる」とNHKに抗議の電話をしたそうだ。NHKは「まぁ、フィクションですから」と軽くいなしたとか。実は森には小藤次の姓である赤目という姓は全くないそうだ。ついでに久留島姓もいないとか。藩主一族が皆東京に転居したからだろう。

本を読んで、若き藩主久留島通嘉に親近感が湧いたので、菩提寺の安楽寺にも行ってみた。

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P9229121e posted by (C)オトジマ

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本堂の裏に歴代藩主の墓所がある。殿様たちの墓は意外と小さく質素で民間人の墓石と異ならない。貧乏な藩だったんだなぁ。貧乏のあまり、参勤交代を出来なかった年も幾度かあったという。
1万2000石じゃーねぇ。

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P9229126e posted by (C)オトジマ

これが8代久留島通嘉の墓石。
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Author:トトロのとなり
現在トトロのとなりの門川町に住む。
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